吉松駅
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吉松駅
駅舎
よしまつ
Yoshimatsu


所在地鹿児島県姶良郡湧水町川西968.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度0分42.67秒 東経130度44分17.3秒 / 北緯32.0118528度 東経130.738139度 / 32.0118528; 130.738139座標: 北緯32度0分42.67秒 東経130度44分17.3秒 / 北緯32.0118528度 東経130.738139度 / 32.0118528; 130.738139
所属事業者九州旅客鉄道(JR九州)
電報略号ヨマ
駅構造地上駅
ホーム2面4線[1]
乗車人員
-統計年度-116人/日(降車客含まず)
-2013年-
乗降人員
-統計年度-229人/日
-2013年-
開業年月日1903年明治36年)9月5日[2]
乗入路線 2 路線
所属路線■肥薩線
キロ程86.8 km(八代起点)
◄*真幸 (7.8 km) (7.5 km) 栗野
所属路線■吉都線
キロ程0.0 km(吉松起点)
(2.6 km) 鶴丸
備考無人駅(自動券売機有)[3][4]
* この間に熊本支社鹿児島支社の境界あり(当駅から栗野寄りは鹿児島支社管内)
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吉松駅(よしまつえき)は、鹿児島県姶良郡湧水町川西にある、九州旅客鉄道(JR九州)のである。
歴史

明治30年代ごろにおいては、鹿児島県と、既に鉄道が敷設されている九州北部とを結ぶことが必須の課題となっていた。そこで九州鉄道の路線が八代駅まで開通を見ていたため、この八代と鹿児島県を結ぶ計画が立てられた。八代と鹿児島をどう結ぶかについては、海岸線周りの案と山中を進む案とがあったが、結局最初にとられたのは山中を進む案であった[2]。これには「海岸線に線路を敷設しては危険」との、軍の意向が関係したともいわれている[2]

まず明治34年(1901年)6月10日に鹿児島線として鹿児島駅から国分駅(現在の隼人駅)までが開通した[2]。これは九州で初めての官設鉄道である。ついで明治36年(1903年)1月15日には国分駅からさらに横川駅(現在の大隅横川駅)までの延伸が成った[2]。そして同じ明治36年(1903年)の9月5日に、横川駅からこの吉松駅までさらに延伸となって、このとき当駅は開業する[2]

一方の八代側では明治41年(1908年)6月1日に八代駅から人吉駅までが開業したが、問題は南九州中央部の山岳地帯を貫く、人吉駅からこの吉松駅までの間であった。ここに線路を敷くのは困難を極めたが、それでもスイッチバックループ線等をいくつも取り入れた線路の敷き方によって、明治42年(1909年)11月21日、遂に人吉駅からこの吉松駅までの間が開業し[2]、この開通を以って鹿児島から福岡(博多駅)、門司(現門司港駅)までが一本の線路でつながり[2]、さらに関門連絡船を経由して大阪、東京にもつながることとなった。今でも吉松駅前にはこれを記念する「肥薩鐵道開通記念碑」が機関車の動輪とともに設けられている。門司から八代、人吉、吉松をへて鹿児島までは人吉から吉松までの開通とともに鹿児島本線となった[2]

大正元年(1912年)10月1日には、同じく鉄道網から外れていた宮崎県とこの吉松駅を結ぶために宮崎線が小林町駅(現在の小林駅)まで開通する[2]。宮崎線はその後大正2年(1913年)5月11日に谷頭駅まで、同じ年の10月8日に都城駅まで延伸を果たした[5]。その後も少しずつ線路を伸ばして行き、大正5年(1916年)の10月25日には宮崎駅まで全通し、その後宮崎本線とされたのち、小倉駅から吉松駅までが日豊本線とされたため、その一部となった[5]

このころ吉松は熊本方面・宮崎方面・鹿児島方面からの線路が一つに集まる交通の要衝として繁栄を見せていた。人だけではなく物資の流れの中心地ともなって、駅附近にはさまざまなこれらの人々、物たちを対象とする商売が盛んに行われた。また吉松は附近の路線の管理を一手に引き受ける駅となっており吉松機関区もおかれていたので、鉄道関係の職員もこの町には多く住んでいたという。

しかし鹿児島本線においては、人吉と吉松の間の急勾配を避けるため海岸回りの路線の工事が着々と進み、昭和2年(1927年)10月17日の湯浦駅から水俣駅までの開通を以って、海岸線周りの八代駅から鹿児島駅までが全通、こちらが鹿児島本線の一部となって、同時に八代駅から鹿児島駅までの従来の鹿児島本線は肥薩線という一支線に格下げとなった[6]。また日豊本線においても、都城駅から現在の隼人駅までを海岸回りで通す路線の建設が行われ、昭和7年(1932年)の12月6日に大隅大川原駅から霧島神宮駅までの開通によってこちらも全通、日豊本線の一部となり、吉松から都城まではこれも一つの支線たる吉都線に格下げとなった[7]。それからのこの駅は吉都線と肥薩線、二つの小さなローカル線の接続駅としての役目を持つに過ぎない。

この駅は昭和62年(1987年)の4月1日に国鉄分割民営化により九州旅客鉄道の駅となり、その後平成4年(1992年)6月1日には構内に霧島高原鉄道事業部が発足したが、平成20年(2008年)4月1日に鹿児島鉄道事業部と統合し霧島高原鉄道事業部は廃止となった[5]令和4年(2022年)3月には出改札業務と乗務員区が廃止され、吉都線と吉松以南の肥薩線を管轄するCTCセンターも隼人駅に移転し、無人化された。現在、夜間停泊の乗務員詰所のみ設置されている。
年表

1903年明治36年)9月5日:鹿児島線の横川駅(現在の大隅横川駅)から当駅までの延伸にともない吉松駅として開業する[2]

1909年(明治42年)11月21日:当駅から人吉駅までが開通する[2]。同時に門司駅から当駅を経て鹿児島駅までが鹿児島本線とされる[2]

1912年大正元年)10月1日:宮崎線が当駅から小林町駅(現在の小林駅)まで開通し接続駅となる[5]

1917年(大正6年)9月21日宮崎県営鉄道の国有化により当駅から宮崎駅をへて広瀬駅(現在の佐土原駅)までが宮崎本線とされる[5]

1923年(大正12年)12月15日:市棚駅から重岡駅までの開通により豊州本線と宮崎本線の小倉駅から宮崎駅を経て当駅までが日豊本線とされる[5]

1927年昭和2年)10月17日:鹿児島本線の八代駅から当駅を経て隼人駅までが肥薩線として分離される[6]

1932年(昭和7年)12月6日:日豊本線の当駅から都城駅までが吉都線として分離される[5]

1968年(昭和43年)4月13日:現在の鉄筋コンクリート二階建ての駅舎が落成[7]

1983年(昭和58年)6月1日:貨物の取り扱いを廃止[8]


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