吉松義彦
全日本選手権後の吉松
基本情報
ラテン文字Yoshihiko Yoshimatsu
国 日本
出生地鹿児島県
生年月日 (1920-11-16) 1920年11月16日
没年月日 (1988-07-05) 1988年7月5日(67歳没)
階級男子
獲得メダル
柔道
世界選手権大会
銀1956 東京無差別級
2013年12月19日現在
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吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - 1988年7月5日)は、日本の柔道家(講道館9段)。元・鹿児島県柔道協会理事長。
世界選手権大会準優勝や全日本選手権大会で史上初となる3回優勝[1]等の成績を残し、松本安市や醍醐敏郎、石川隆彦らと共に終戦直後の日本柔道界を代表する選手の1人であった[2]。
経歴(のち講道館9段)から同校柔道部および修道館道場にて指導を受けた[3]。林は白帯時代から吉松の才を見抜き、著書『柔道に生きる』の中で「吉松の柔道は、守勢の時は青竹のようにしなやかで、相手が力のバランスを崩すとすぐにビシっと弾き返す、攻撃と守備の区切りがない理想の動き」と絶賛している[3]。吉松の代名詞ともいえるケンケン内股が完成されたのも、天性の柔軟な足腰が成せる業であった[3]。1935年から鹿児島商業を全国大会4連覇に導いたほか、相撲でも活躍し、5年次には全国大会を制して中学相撲の第20代横綱[注釈 1]となり角界からも注目された[3]。なお、鹿児島商業4年次の1938年全国大会の決勝戦で当時豊島師範学校に在籍していた志村けんの実父と大将戦で引き分けに終わっている。
鹿児島商業を卒業後は柔の道を志して京都の武道専門学校に進学し、連日の激しい稽古に明け暮れる。2年次の春には、先輩に当たる松本安市や橋本富行と共に東京へ1週間の武者修行に赴き、皇宮警察・警視庁新撰組・講道館・満蒙開拓青少年義勇軍道場をハシゴして1日6時間近い荒稽古を行うなどした[5]。吉松は後に「このような稽古を最高のものだとは思っていないが、若い時には一度位はこのような稽古をするのも、自分を鍛えて大きな力になるのではないか」と述懐し、「稽古は与えられるものではなく、自ら求めるものであると信ずる」と続けていた[5]。このような努力の甲斐もあり、1942年5月に橿原神宮外苑の建国会館で行われた全日本東西学生対抗試合では西軍の主将を務め、慶応大学の羽鳥輝久ら3人を抜いて西軍を逆転優勝に導いている[2]。
1944年には太平洋戦争に伴う応召で見習士官として中支へ出征し、第二次長沙作戦に参加した際に敵弾に急所(睾丸)を撃ち抜かれながら九死に一生を得て帰国[4]。復員後は鹿児島県警に入って警察官となり[1]、1947年12月9日付で講道館へ入門[6]。1948年の第1回全日本選手権大会では準決勝戦で武専時代の先輩である松本安市6段と相対し、勝負がつかず抽選により決勝戦進出を逃した[7]。同年6月の第1回全国警察選手権大会では決勝で松本に雪辱を果たし優勝を飾る。1949年の第2回全日本選手権大会では初戦で醍醐敏郎6段に跳腰返で敗れ、翌50年の第3回大会では2回戦で広瀬巌7段に大外刈で敗れた[7]。1953年全日本選手権決勝戦にて
内股を仕掛ける吉松(左)と伊藤秀雄(右)
1951年の全日本選手権大会では、3連覇を目指す石川隆彦7段との準決勝でこれを大外刈に沈め、自身初の決勝戦に進んだ[7]。