吉村裕基
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吉村雄輝」とは別人です。

吉村 裕基東福岡高等学校硬式野球部 コーチ
ソフトバンク時代
2013年5月4日、福岡 ヤフオク!ドームにて
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県糟屋郡古賀町(現:古賀市
生年月日 (1984-06-14) 1984年6月14日(39歳)
身長
体重183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手一塁手三塁手
プロ入り2002年 ドラフト5巡目
初出場NPB / 2003年10月3日
最終出場NPB / 2017年10月31日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


東福岡高等学校

横浜ベイスターズ
横浜DeNAベイスターズ
(2003 - 2012)

福岡ソフトバンクホークス (2013 - 2018)

デ・フラスコニング・ツインズ (2019)

琉球ブルーオーシャンズ (2020)

火の国サラマンダーズ (2021)

コーチ歴


火の国サラマンダーズ (2021)

東福岡高等学校

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

吉村 裕基(よしむら ゆうき、1984年6月14日 - )は、福岡県糟屋郡古賀町(現:古賀市)出身の元プロ野球選手外野手内野手)。右投右打。
経歴
プロ入り前

1984年、福岡県糟屋郡古賀町(現:古賀市)で生まれる。中学時代は地元の野球チーム「福岡ライナーズ」に所属。東福岡高校では、1年夏の県大会では柳川高校香月良太から本塁打を放つなど頭角を見せ、秋の公式戦では打率.505、7本塁打と1年時から強打者として存在感を見せる[1]。2年春には4番・一塁手として第73回選抜大会に出場し、8強入りを果たした[2]。3年時は投手も務めたが甲子園出場とはならなかった[2]。高校通算43本塁打を記録[2]2002年ドラフト会議にて横浜ベイスターズから5巡目指名を受け、入団。このドラフトでは、高校の先輩にあたる日本大学村田修一も入団している。背番号は「31」。
横浜・DeNA時代

2003年は、イースタン・リーグでは66試合232打数で12本塁打など5番打者として活躍。7月13日にはフレッシュオールスターゲームに選出され7番三塁手で先発出場したが4打席で無安打1四球だった。シーズン終盤、一軍で同ポジションを守る村田が手首を骨折したため入れ替わりで10月3日に一軍に初昇格[3]。同日本拠地横浜スタジアムで行われた対中日ドラゴンズ戦に7番三塁手で先発出場し、迎えた2回の初打席で平松一宏のストレートを打ちプロ入り初安打となる二塁打を放つ[3]と直後の相川亮二の適時打により先制点となるプロ初得点も記録、その後は岡本真也の押し出し四球(プロ初打点)、岩瀬仁紀の死球で4打席3出塁のデビューだった。10月4日の対中日戦でも6番三塁手で先発出場し、7回に先頭鈴木尚典のライナーを相手遊撃手森野将彦がエラーした無死一塁で迎えた第3打席、それまで2三振と抑えられていた野口茂樹のスライダーを左翼席へ運び、プロ入り初本塁打となる勝ち越し2点本塁打で試合を決めた[3]。昇格後の全6試合は全て先発出場だった。

2004年は、開幕は二軍で迎え、71試合277打数17本(リーグ4位)、打率.292(8位)と安定していたため、7月9日に自身2度目のフレッシュオールスターゲーム(大阪ドーム開催)に3番三塁手で先発出場し、初回の1打席目は馬原孝浩から右手に死球を受けたが、2回の2打席目二死二塁の場面で筒井和也からライトに2点本塁打を放った[4]。7月3日に一軍へ昇格し、同日の対中日戦で6回に木塚敦志に代わりプロ初の代打出場となったがファーストへのファウルフライだった。7月7日の対読売ジャイアンツ戦では、8回同点二死三塁の場面で土肥義弘の代打として出場するとブライアン・コーリーから勝ち越し決勝打となるライト前適時打を放ち、これが代打でのプロ入り初安打、また本塁打以外でのプロ入り初適時打となった。7月16日に離脱していた石井琢朗らの復帰により一軍選手登録を抹消。同日札幌ドームで行われたイースタン・リーグ対巨人戦で先発4番起用されたが、初回の打席で高橋尚成から肩甲骨に死球を受け試合途中で交代した[5]。以降二軍で欠場が続き、8月14日のイースタン・リーグ対北海道日本ハムファイターズ戦で3番三塁手で先発出場して復帰した。9月24日に一軍昇格すると、9月30日の対阪神タイガース戦で代打として一軍復帰出場し、以降の代打起用は無安打、10月11日対中日戦で5番一塁手でスタメン復帰したが4打数無安打、10月15日の対ヤクルトスワローズ戦で代打で1安打1得点したものの復帰後は1安打のみ、年間でも2安打という成績で終わった。

2005年は、4月9日イースタン・リーグでの対日本ハム戦でスタメン出場し、5回に先発中村渉から死球、さらに7回3番手の武田久から左手に死球を受け病院で検査の結果、左手第4指中手骨骨折と診断された[6]。6月1日イースタン・リーグ対インボイス戦で代打から復帰し三塁守備に付いた。リーグ10位の10本塁打を放ったが、打率.252と不振で昇格は叶わなかった。2004年の春季キャンプで外野ノックは受けていたが、この年の秋季キャンプから外野の守備練習を本格的に開始した。

2006年は、開幕一軍入りを果たすと、4月19日の対広島東洋カープ戦から2日連続の本塁打、7試合連続安打など好調を維持し、8番右翼手としてスタメンに定着。5月3日ナゴヤドームでの対中日戦で佐藤充からソロ本塁打、5月4日も同カードのルイス・マルティネスからソロ本塁打、5月5日横浜スタジアムでの対阪神戦では井川慶から3点本塁打と3日連続の本塁打を放った。同日5打席目に久保田智之からヒットを打ち初の猛打賞も記録した。5月7日から5月24日まで13試合連続安打と好調を維持。5月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦では久保康友 - 里崎智也バッテリーからプロ初盗塁を記録。6月2日横浜スタジアムでの対日本ハム戦では橋本義隆から2点本塁打、清水章夫から3点本塁打で5打点と初の1試合2本塁打を記録。しかし6月3日対日本ハム戦の7回第4打席に武田久?鶴岡慎也バッテリーから右手に死球を受ける。6月4日横浜市内の病院での検査の結果、右手第2指末節骨骨折と診断され、同日出場選手登録も抹消された。ここまで41試合出場135打数で打率.341、9本塁打、27打点の好成績で新人王争いもしていた中の離脱となり、昨春の二軍戦での左手骨折時のバッテリーとも同じだったこともあり、6月5日の同カードの試合前に日本ハムの高田繁ゼネラルマネージャートレイ・ヒルマン監督が謝罪した[7]


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