吉村秀雄
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映画評論家の「吉村英夫」とは別人です。
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出典検索?: "吉村秀雄" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年6月)

よしむらひでお
吉村秀雄
サイレンサーに貼られたヨシムラのロゴマーク
生誕1922年(大正11年)10月7日
福岡県筑紫郡那珂村
死没1995年3月29日
神奈川県相模原市
国籍 日本
別名ポップ、オヤジ
著名な実績世界初の集合マフラー開発(性能が著しく向上する構造)
影響を受けたもの旧日本海軍航空隊
影響を与えたものホンダなどの自動車メーカー
活動拠点神奈川県愛甲郡、アメリカ合衆国カリフォルニア州
配偶者吉村直江
子供吉村南海子
吉村不二雄
吉村由美子
親戚森脇護
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吉村 秀雄(よしむら ひでお、1922年10月7日 - 1995年3月29日)は、オートバイ部品・用品メーカーヨシムラジャパン創業者。オートバイチューニング技術者。英語で「おやじ」を意味する「POP(ポップ)」あるいは「ポップ吉村」の愛称でも知られる。

車両の製造・販売でなく、性能向上のための加工を行うチューニングをいち早く始め、世界で初めて集合管を開発した[1]。大手メーカーでない事業規模の小さいプライベーターとして活躍し、1970年代当時の耐久レースで「無敵艦隊」と謳われる程の成績を収めていた本田技研工業を相手に勝利するなど、1960年代から1980年代の日本のモーターサイクル発展期において様々な実績を残し、日本人として本田宗一郎と並びAMA殿堂入りを果たした[2]

以降、個人としての吉村秀雄を指す場合には「吉村」と漢字表記し、ヨシムラモータース、ヨシムラ・コンペティション・モータース、ヨシムラレーシング、YOSHIMURA R&D、ヨシムラジャパンなど、企業名をさす場合には「ヨシムラ」とカタカナ表記をする。
生い立ち
幼少期

吉村秀雄は筑紫郡那珂村材木屋を営む父、吉村又平と母フイの間に次男として生まれた[3]。兄、姉、弟の4人兄弟であった。祖父はで生計を立てていたが作業中の事故で片脚を切断し、代わって息子の又平が家計を担うこととなるが、村で唯一製材機を導入するなど、事業は繁盛していた[3]。幼少期は二ヵ月半違いの従兄弟である斉(ひとし)と共に遊びやいたずらに明け暮れ、勉強に打ち込むようなことはなかったが成績は優秀であった[4]。小学校高学年になると野球を始め、左利きということもあってピッチャーをつとめた。1930年代の九州では川上哲治のいた熊本工業福岡工業が野球の名門で、吉村は福岡工業へ進学し野球を続けることを希望していた。しかし、その頃父又平は本業が疎かになるほどに発明に没頭しており、家業は傾きかけていた。700あまりの特許を取得するも大した稼ぎにはならず、家の経済状況悪化のため、吉村は福岡工業への進学を断念して高等小学校へと進学せざるをえなかった[4]

1936年、高等小学校の卒業が迫るころ、脊振山フランス飛行士アンドレ・ジャピーの操縦する飛行機が遭難する事故が発生した。小学生の頃、雑餉隈にあった九州飛行機の工場見学へ行った際に飛行機に関心を持ち、以来空への憧れを抱いていた吉村は、自宅から30キロメートルほど離れていた事故現場まで歩いて見物に向かった[5]。この事故は野球を断念する以前の幼少期に抱いていた空への憧れを甦らせ、海軍飛行予科練習生(通称:予科練)の受験を決意させた[5]。そして、この年の一万数千人の志願者がいた試験を無事突破し、219人の合格者の内の1人となった[6]
予科練時代横須賀海軍航空隊庁舎

吉村の在籍していた海軍飛行予科練第八期生は、一班が15歳から16歳の少年たち、15、6名で構成されていた[7]。その中で、14歳8ヶ月と年少の吉村にとって日々行われる体力訓練は過酷なものであったが、訓練での失敗には連帯責任が課せられるため、皆に迷惑をかけまいとこれを必死に耐えた[7]。入隊から一年が経ち、専修過程の選別において吉村は操縦科を選択し、霞ヶ浦海軍航空隊へと移動することとなった。霞ヶ浦での操縦訓練を順調にこなしていた吉村であったが、30時間ほどの訓練を消化した頃、訓練中に搭乗した練習機、三式陸上初歩練習機のエンジンから火災が発生し、緊急離脱を強いられた[8]。高度800メートルから離脱したがパラシュートがうまく機能せず、高度100メートルまで落下したのちにやっとパラシュートは開くが、速度が増した状態での作動に胸部を圧迫し、意識を失った。病院のベッドで意識は取り戻したが肋膜炎を起こしており、病状が安定した後の検査では結核菌が検出され、吉村は予科練を除隊となった[9]。そして、除隊手当て700円[注釈 1]を手に帰郷を余儀なくされた。
航空機関士として機関士時代に携わっていたDC-3(写真は大日本航空のものではない)

帰郷して2ヶ月ほど療養し、医者から結核の心配もないと診断されると、吉村は操縦士としての道は絶たれても飛行機に関わりたいと考え、福岡市、雁ノ巣飛行場にあった大日本航空福岡支所で整備士として働き始めた[10]。しかし、当時難関であった予科練に合格した実績があるにもかかわらず、日々あてがわれる単純作業に嫌気が差した吉村は、給料の支払われない研究員となる代わりに実務訓練をつみ、独学で国家検定試験を受験して、航空機関士を目指すことを決意した[10]。2年間勉強に専念した結果航空機関士の検定試験に合格、日華航空、満州航空などからも声がかかったが、古巣である大日本航空で航空機関士として働き続けることを選択した[11]。航空機関士免許は9月末に発行されたが、当時年齢制限に満たない18歳であったため一度返却するよう連絡が入り、1941年10月13日、19歳の誕生日を過ぎてから免許証は再び吉村の手元に届いた。日本で398人目の当時最も若い航空機関士であった[12]
戦争体験先導の際に搭乗した同型機の銀河

航空機関士として入社後は福岡から沖縄台湾北京上海などを飛び回っていた吉村であったが、1941年12月8日真珠湾攻撃を境に大日本航空は海軍徴用隊、陸軍徴用隊、大日本航空残留組に三分割され[13]、吉村は日本でしばらく経験をつんだ後、海軍徴用隊として1942年7月にはシンガポールへ派遣されることとなった[14]


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