吉本総合芸能学院
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この項目では、吉本興業が創設した養成所について説明しています。“NSC”のその他の用法については「NSC」をご覧ください。
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このページのノートに、このページに関する議論があります。(2022年4月)
議論の要約:首席卒業の芸人について

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出典検索?: "吉本総合芸能学院" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年1月)

吉本総合芸能学院(よしもとそうごうげいのうがくいん)は、吉本興業(旧・よしもとクリエイティブ・エージェンシー)1982年昭和57年)に創立した、主に新人タレントを育成する目的で作られた養成所通称はNSC(エヌエスシー)(New Star Creation)。当初は入学金3万と月謝料1万で年間15万円であったが、近年は入学金46万円月謝は無しとなっており、入学の時点で多額の資金が必要となっている。
概要

入学資格は中学校卒業(あるいは卒業見込)以上としている。在学期間は基本的に1年間。

大阪校1期出身のダウンタウンをはじめとして、数多くのお笑い芸人やタレントを輩出している。卒業後に大多数の生徒は吉本所属となるが、吉本を退所して他の芸能事務所へ移籍し活動を続けている者も少なからずいる[注釈 1]

中退者や中途入学者も卒業後は他の卒業生と同期、つまり芸歴に差はないものとして扱われる。しかし大阪校や名古屋校では過去に1年2期制の時期があり、「吉本内では厳密に言えば半年先輩・後輩」というように活動開始時期が重んじられる場合と、「年単位で言えば同期」というように他事務所所属のタレント同様に扱う場合がある。
歴史

吉本における養成所の歴史は、戦前1938年頃に漫才作家の秋田實(吉本文芸部所属)が新設した「漫才道場」に遡る。講師には奇術研究者であった保田春雄、漫才作家の長沖一などがいた。秋田Aスケ(秋田Aスケ・Bスケ)らを輩出したが、1941年に秋田が新興キネマ演芸部への移籍に伴い閉鎖へと至った。戦後では吉本新喜劇で研究生を募集し、岡八郎藤井信子といったスターを生み出している。

NSC開校の契機になったのは、1980年ごろの漫才ブームである。NSCの初代校長・冨井善則は「漫才ブームが起こって開校を考えた。ブームで出た漫才師はセンスも違っていた。紳竜なんて、我々の考えていた漫才を超えていた。そこで若いお客さんが欲している感覚の芸人を育てないとアカンと思った」と創設の経緯を話している[1]。また冨井は、師匠連が経済的理由から弟子を取らなくなりタレントの供給源が枯渇しつつあったことも影響したと語っている[2]

当時吉本が経営していたボウリング場「ボウル吉本」(現在、同地にはなんばグランド花月が建っている)の1階にあったゲームセンターの一角を教室として板で囲い、NSCは誕生した[3]。当時の入学金は3万円、月謝は1万円であった[4]

赤字でスタートした1期生は70人[2]とも90人[1]とも言われる。第1期のカリキュラムは一般講義の他、漫才コント・発声練習・ジャズダンス・演技・殺陣フラメンコ日本舞踊などの実技授業から成り立っていた[3][2]。実技授業は生徒にとって、芸人となるにあたっては直接無関係なためとりわけジャズダンスは不興を買った[3]。当時は確たる教育方針が決まっておらず、何を教えていいのか吉本の誰もよく分かっていなかったという[3]

松本人志(ダウンタウン)はNSCの授業について、「急にフラメンコやろう言い出して(笑)。それで『カスタネット買え』言われて。『なんやそれ!?』って(笑)。僕は買わなかったですけど。ほんならフラメンコの授業一回やって、『どうや?』って言われて。『いや、おもろないっすね』って言うたら、もうそれで『じゃあないなー』言うて、授業なくなったりとか(笑)、そんなんでしたもん」と語っている[5]。しかしその後、ダンスを積極的にイメージ作りへ取り入れた吉本印天然素材や、ダンスをコントなどに取り入れている芸人も少なくないことから、現在はダンスが芸人としての活動に無意味・無関係ではなくなっている。

1期生は以降のNSC存続のためスターを生み出さなければいけないという会社の至上命令があり、ダウンタウン・ハイヒールトミーズ銀次・政二の4組を主に新人ゴリ押し作戦が行われた[3]。生徒は在学中2?3か月に一度NSC寄席を催し、卒業後は定期的に新作漫才や芝居のイベントへ出演した。

NSCの設立によって芸人を目指す間口が広がったと同時に、従来の師匠連も弟子を取りやすくなった。その反面これまでの「師匠と弟子」という関係に見られた上下関係の躾、芸人となる覚悟を持つ者が減りNSC出身者を毛嫌いする芸人もいた。対してNSCではこれまで師匠が弟子に教えていた「芸能界のしきたり」も授業の一環に取り込み、NSC出身者が芸人の世界へ違和感なく溶け込めるよう配慮していた。笑福亭仁鶴のように自ら多くの弟子を持ちながら、NSCの入学者に対して激励を送る師匠もいた。また吉田ヒロのように、NSCを卒業後に先輩芸人へ弟子入りしたケースもある。

しかしながら、師匠・弟子の関係から育つのが当たり前だった当時の吉本の中堅やベテラン芸人[誰?]からは賛否両論あった。その影響か『笑ってる場合ですよ!』の新人芸人オーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」では、当時NSCに在籍していたダウンタウン(当時のコンビ名は「まさし・ひとし」)、ハイヒール、銀二・政二らが素人として出場していた[要出典]。

1988年、ダウンタウンの『4時ですよーだ』出演による人気の影響で、この年(7期生)から入学希望者が飛躍的に増えた[要出典]。

1990年、9期生の宮川大輔と矢野勝也(矢野・兵動)は中途入学であり、ナインティナイン(2人とも宮迫博之矢部美幸の入れ知恵で学費を故意に滞納したため退学処分)や15期生の西田幸治笑い飯)らは中退している。

卒業資格自体がないため、出席日数に関係なく卒業はできる。そのため中退は学費の滞納以外では発生しておらず月謝時代には大量の中退者がいたものの、学費が入学時全納になってからは途中から出席しない者は多数いるが中退者は一部を除いていない。

1992年第二次ベビーブームの時期と重なり入学希望者が増え、約800人が入学し約400人が合格した。教室クラスも高卒組と、大学生社会人組の2組に分けられた。


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