吉弘鑑理
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例吉弘 鑑理
時代戦国時代
生誕永正16年(1519年[1]?
死没元亀2年6月7日1571年6月29日
改名鑑直(初名)、鑑理
別名太郎(通称)、蔵人佐、渾名:鬼伊予
官位左近大夫伊予守
主君大友義鑑義鎮
氏族吉弘氏
父母吉弘氏直
兄弟鑑理、鑑広
妻大友義鑑娘貞善院義誉静音[2]
鎮信鎮理(高橋紹運)戸次宗傑室、
尊寿院、桜井正続室
テンプレートを表示

吉弘 鑑理(よしひろ あきまさ/あきただ)は、戦国時代武将大友氏の家臣。
略歴

吉弘氏は大友氏庶流の一族で、田原氏の分家筋でもある。初めの主君で後に義父となる大友義鑑と父・吉弘氏直(うじなお)から1字ずつ賜り、初めは鑑直(あきなお)を称した。天文3年(1534年)に父・氏直(当時19歳)が大内氏との勢場ヶ原の戦いで戦死したため、家督を継ぐ[1]。同年9月には、筑後国人西牟田播磨守親毎・親氏父子が三池・溝口・辺春、肥後の小代・大野諸氏らとともに反旗をひるがえした。大友義鑑はこの反乱を鎮圧するため、吉弘左近大夫と田北左京進を大将として8千7百余の大軍を率いて、西牟田城を攻め落され、親毎・親氏父子を誅伐した。

天文19年(1550年)7月、肥後菊池義武に対して竹迫・宇土・下陣・片志多攻略に参戦した。弘治2年(1556年)5月には謀反を起こす小原鑑元に対し肥後に出陣して、反乱を鎮圧した。弘治3年(1557年)から亡くなるまで大友宗麟の側近として活躍し、臼杵鑑速吉岡長増らと共に豊後の「三老」に列せられた。永禄3年(1560年)4月18日、そして8月16日?19日、筑前の豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻にも参戦した[3][4][5]。政務では肥前方分を務め、同年9月7日、吉岡長増、田北鑑生と共に龍造寺隆信神代勝利を和睦させた[6]。永禄4年(1561年)申次職を務める。

永禄5年(1562年尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種[7]を追い出せて、城将・千手宗元を降伏する。

さらに毛利軍の手に落ち天野隆重杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前刈田に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも鑑理・鑑連ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。松山城を包囲する間に鑑理・鑑連ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し、10月13日夜昼、大里において第三次柳ヶ浦の戦いに鑑理・鑑連らの奮戦ぶりで門司城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた[8][9][10]が、11月26日にも、終日門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった[11]

智勇兼備の武将で、宗麟からの信任は厚く、筑前国での軍権を与えられて、のち吉岡長増から豊前、豊後の政治事項を継ぐ。弘治3年(1557年)7月の秋月文種の攻略や永禄10年(1567年)7月の高橋鑑種討伐、永禄11年(1568年)4月?7月の立花鑑載らの謀反鎮圧に参加した。対毛利氏門司城の戦いや、永禄12年(1569年)5月の多々良浜の戦い[12]など、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef