吉川幸次郎
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吉川幸次郎
人物情報
生誕 (1904-03-18) 1904年3月18日
日本兵庫県神戸市
死没1980年4月8日(1980-04-08)(76歳)
出身校京都大学
学問
研究分野中国文学
研究機関京都大学
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吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本中国文学者。学位は、文学博士京都大学論文博士・1947年)(学位論文『元雑劇研究』)。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者は善之。子は東洋史学者の吉川忠夫
生涯

兵庫県神戸市の貿易商の次男に生まれる[1][2][3]。中宮小学校を経て、諏訪山小学校を卒業した[1]。1916年(大正5年)に神戸第一中学校(現:兵庫県立神戸高等学校[4])入学後は、『史記』(『史記国字解』)『水滸伝』『西遊記』『三国志』などの訳書に親しんだ[1][3]

1920年(大正9年)、第三高等学校文科甲類へ入り[1]雑誌『支那学』の同人だった青木正児の知遇を得た[1]。在学中に現代中国語を学んだり[3]、1923年(同12年)には中国江南を旅したりした[1]。中国へ傾いたのには、芥川龍之介佐藤春夫の影響もあった[3]

京都帝国大学文学部文学科[1]に進み、狩野直喜鈴木虎雄考証学・中国語学・古典中国文学を学んだ[1]。1926年(大正15年)卒業論文『倚声通論』を漢文で書き、大学院に進むと唐詩を研究した[3]

1928年(昭和3年)から1931年(同6年)まで、先輩格の倉石武四郎北京留学し[3]、帰国後、東方文化学院京都研究所(後の東方文化研究所、現:京都大学人文科学研究所同付属東アジア人文情報学研究センター)所員となり、京大文学部の講師を兼ねた。この頃、中国に徹するため、当時のシナ服で暮らし、中国語で会話し、中国語で論文を書いた[3]

1932年(昭和7年)中村ノブと結婚し左京区に終生在住した。

1935年(昭和10年)から1941年まで倉石・小川環樹らと、孔穎達著『尚書正義』(尚書の注釈書)の定本を作るため会読(輪読討論)を続け、1939年から1945年にかけ、東方文化研究所で発行した『尚書正義定本』や、1940年から1948年にかけ、岩波書店で出版した『尚書正義』の日本語訳などに実った[1]

1939年から1947年まで、最初は青木正児が指導して『元曲辞典』編纂のため、臧懋循(そうぼじゅん)の『元曲選』を会読し、その成果の一部は『元曲選釈』に実った(1951年に「第1・2集」、1976-77年に「第3・4集」を)京大人文科学研究所[1]で、計・12冊発行。1947年『元雑劇研究』により文学博士

1947年京都大学文学部教授[1]となった。

この頃から日本語の論文を発表し、一般向けの啓蒙書も多く出版していった。

1949年、母校旧制神戸一中の後身、兵庫県立神戸高等学校の校歌『わこうどは まなびやをたかきにぞおけ』を作詞。初の日本語の詩であった[5]

1951年日本学術会議会員になった(1963年まで)。NHKラジオの文化講座で、『中国の文学』を講義した。1952年国語審議会委員に就いた(1956年まで)。

1954年、サンフランシスコ平和条約締結後、国務省に招かれ、アメリカに遊んだ。

1956-1958年は文学部長。1958年にNHK教育テレビ「教養大学」で『中国文学入門 - 詩を中心として』を番組講義。1959年日本中国学会理事長(1963年まで)。1960年モスクワの『国際東洋学者会議』に参加し、ヨーロッパを回った。1962年コロンビア大学の客員教授として約4ヶ月ニューヨークに滞在講義した。

1964年日本芸術院会員、1965年5月東方学会理事長(1975年からは没時まで会長)[1][6]。1966年、NHKラジオで『論語』を講義した[7]

1967年『杜甫の詩論と詩』を最終講義として京大を停年退官、名誉教授。杜甫に取り組み、杜詩を読む「読杜会」[1]、学生・院生を主とする「小読杜会」を始めた(ともに1979年まで)。前者には足利惇氏大山定一野間光辰らが集った。

1968年から1970年に、『吉川幸次郎全集』を自編[1]出版。1969年、文化功労者に選出[3][8]。また、フランス学士院からスタニスラス・ジュリアン (Stanislas Julien) 賞を贈られる。1970年NHK放送文化賞。1971年に朝日賞

この頃から江戸期の儒学者、伊藤仁斎伊藤東涯荻生徂徠新井白石らの研究著述も進めていった。特に本居宣長は「漢文は中国の発音で読み下すべき」とする信条の先覚として、戦前から私淑していた。

1974年、勲二等旭日重光章。1975年、外務省の学術文化訪中使節団団長として40年ぶりに訪中。

1977年から杜甫全詩の訳注を目指し『杜甫詩注』を刊行開始。1978年、NHK教育テレビで『杜甫詩抄』を26回講義した[1]。翌年、再び中国文学研究者訪華団団長として、中国を3週間巡った。

1980年2月、『杜甫私記』を刊行するが、4月8日に癌性腹膜炎により没す[1]。法名「文徳院釈幸善」。大谷本廟での葬儀・同墓地に埋葬された。没後、勲一等瑞宝章を贈られ、従三位に授せられる[1]


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