吉崎御坊
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吉崎御坊蓮如上人記念館

吉崎御坊(よしざきごぼう)は、かつて越前吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。「史跡 吉崎御坊跡」[1]の石碑が立つ。
起源

文明3年(1471年7月27日比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した[2][3][4]。吉崎は興福寺大乗院門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していたこと、また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。

この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には御文(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。

文明6年(1474年3月28日、火災で焼失するも、その後再建。

文明7年(1475年8月21日、戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去する。

永正3年(1506年)、朝倉氏加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる。

別院の建立

延享3年(1746年)に西別院本願寺派)が山下道場のあった場所に建立され、翌年の延享4年(1747年)には東別院大谷派)が吉崎山のふもとに建立される。
寺院・諸施設の現況

御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派別院が、東側に真宗大谷派別院が置かれる。ともに「吉崎別院」と称するため、本山の通称にちなみ本願寺派の別院を「西御坊」・「(吉崎)西別院」、大谷派の別院を「東御坊」・「(吉崎)東別院」と通称される。また、「吉崎寺」(浄土真宗本願寺派)・「吉崎御坊願慶寺」(真宗大谷派)などの寺院、一般財団法人 本願寺文化興隆財団(旧称・本願寺維持財団。浄土真宗大谷本願寺派)が運営する「吉崎御坊 蓮如上人記念館」「眞無量院吉崎別院」などがある。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)

本願寺派吉崎別院(西別院、あわら市)

吉崎別院研修センター


吉崎寺(あわら市)

真宗大谷派(東本願寺)

真宗大谷派吉崎別院(東別院、あわら市)[3][5]

吉崎御坊願慶寺(あわら市)[6]

浄覚寺(あわら市)

名願寺(加賀市)

その他宗教施設等

吉崎御坊 蓮如上人記念館(あわら市・
本願寺文化興隆財団[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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