吉屋 信子
吉屋信子 (1930年)
誕生 (1896-01-12) 1896年1月12日
新潟県新潟市
死没 (1973-07-11) 1973年7月11日(77歳没)
神奈川県鎌倉市
墓地高徳院清浄泉寺
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴栃木高等女学校(現栃木県立栃木女子高等学校)卒業
活動期間1916年 - 1973年
ジャンル少女小説
家庭小説
伝記小説
吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年(明治29年)1月12日[1] - 1973年(昭和48年)7月11日[2])は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した日本の小説家。初め『花物語』などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得[3]。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた[3]。同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした[4]。
経歴1928年、下落合にて
父・雄一が新潟県警務署長を務めていた折、新潟市営所通にあった新潟県庁官舎で生まれた[1]。父はその後行政職に転じ、新潟県内を佐渡郡長として佐渡市(旧相川町)、北蒲原郡長として新発田市(当時は新発田町)に赴任したのち、栃木県で芳賀郡長、次いで下都賀郡長を務めた[5]。この時は足尾銅山鉱毒事件のさなかで、雄一は住民立ち退きの強制執行に当たっていた[6]。母はマサ、兄は4人、8人兄弟で1人だけの女性であった[6][7]。
真岡から栃木市(当時は栃木町)へ移住して、栃木高等女学校(現栃木県立栃木女子高等学校)に入学した。この頃、新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。」という演説に感銘を受ける[8]。