吉原遊廓
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この項目では、江戸に存在した吉原遊郭について説明しています。一時期吉原遊郭を称した、かつて横浜に存在した遊郭については「港崎遊廓」をご覧ください。
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出典検索?: "吉原遊廓" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年1月)
吉原の遊女(明治時代)明治5年(1872年)頃の吉原歌川広重名所江戸百景』より「廓中東雲」(かくちゅうしののめ)。どこぞの商店の番頭か手代あたりでもあろうか、夜明け前、朝帰りの遊び人が仲之町(廓内のメインストリート)へと出てきたところ。

吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された、江戸遊廓である。当初は日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所徳川家康終焉の地である駿府城下町(現在の静岡市葵区)にあった二丁町遊廓から一部が移されたのが始まりである。

本項では、江戸が東京となってからの歴史についても解説する。
歴史「吉原 (東京都)#江戸期」も参照.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに慶長見聞集の原文「よし原に傾城町立る事」があります。
元吉原

徳川家康が天正18年8月1日1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東武士の都となった。家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる、江戸時代初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。

江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、全国を支配する政権の所在地として、武家屋敷の整備など江戸の都市機能を高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などは移転を度々求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、
客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

犯罪者などは届け出る。

という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、大坂城に拠って幕府の支配に服さない豊臣秀頼への対応に追われていた当時は遊廓どころではなく、陳情から5年後、大坂の陣で豊臣氏が滅びた後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊廓「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には遊女屋を他に一切置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。しかし、寛永の頃までは、遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を務めていた。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を得られるうえ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。

このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、江戸湾海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである。

寛永17年(1640年)、幕府は遊廓に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。
新吉原江戸末期の新吉原の見取り図。右のくねった道は日本堤から下る「衣紋坂」とそれに続く「五十間」で、遊廓への唯一の公式通路。「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれた、隔絶された楽園であった。廓内は、通りごとにいくつかのエリアに分かれていた。道路のつくりはほぼこのとおりに現存していて、地図で容易に確認することができる(ただし、実際にはもっと上下に広く左右に狭い)。

江戸市街は拡大し続け、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行石谷貞清は以下の便宜を図っている。
吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)

夜の営業を許可

風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(風俗営業をする銭湯で、遊廓の競合)を200軒取り潰し

周辺の火事・祭への対応を免除

15,000の賦与

この内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋は全て移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。

寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女には、上方伏見墨染遊廓の乳守遊廓)の出身が多かったため、移転先として廓内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊廓での格付けに大きな影響を与えた。

新吉原を開設したのは尾張国知多郡の須佐村の人だったという論文が『知多半島郷土史往来4号』(はんだ郷土史研究会刊)で発表されている。著者は作家の西まさる。西論文によると、吉原遊廓の揚屋は総数約20軒で、そのうち13軒以上が知多郡須佐村の出身であることが、地元寺院の過去帳や寄進物記録で明白になったという。その背後に千賀志摩守がいたはずと発表している。

西まさる『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)によれば、明暦大火後の8月に浅草田圃に出来上がった三町四方の新吉原遊廓であるが、その埋め立て、造成、建設の指揮をしたのは知多の陰陽師で、実際に作業にあたったのは非人頭の車善七が率いる3千人の非人とされた人たちという。


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