吉備津彦神社
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吉備津彦神社

大燈籠と拝殿
所在地岡山県岡山市北区一宮1043
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分36.31秒 東経133度51分49.8秒 / 北緯34.6767528度 東経133.863833度 / 34.6767528; 133.863833座標: 北緯34度40分36.31秒 東経133度51分49.8秒 / 北緯34.6767528度 東経133.863833度 / 34.6767528; 133.863833
主祭神大吉備津彦命
社格備前国一宮
国幣小社
別表神社
創建不詳
本殿の様式三間社流造
別名朝日の宮
例祭10月第3土曜・日曜
主な神事御田植祭8月2日3日
流鏑馬神事(10月第3土曜・日曜)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}吉備津彦神社
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神体山とする吉備の中山西方向より。左が竜王山、右が茶臼山。鳥居

吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は、岡山県岡山市北区一宮にある神社備前国一宮旧社格国幣小社で、現在は神社本庁別表神社

別称を「朝日の宮(あさひのみや)」。
概要

岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓には備中国一宮・吉備津神社が鎮座する。当社と吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。

大化の改新を経て吉備国が備前・備中・備後に分割されたのち、備前国一宮として崇敬された。中世以後は、宇喜多氏小早川秀秋池田氏など歴代領主の崇敬を受けた。

なお敷地内に岡山県道700号岡山総社自転車道線(吉備路自転車道)の指定路が含まれているため、同県道が南北の両鳥居を潜り随身門の前を通過する形で本社敷地内を横断している。
祭神

祭神は次の12柱[1]
主祭神


大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)第7代孝霊天皇の皇子。大吉備津日子命とも記し、別名を比古伊佐勢理比古命とも。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。

相殿神


吉備津彦命(若日子建吉備津彦命、稚武彦命) - 大吉備津彦命の弟または子[2]。なお、一般には「吉備津彦命」といえば主祭神の大吉備津彦命の方を指す。

孝霊天皇 - 第7代天皇。大吉備津彦命の父。

孝元天皇 - 第8代天皇。大吉備津彦命の兄弟。

開化天皇 - 第9代天皇。孝元天皇の子。

崇神天皇 - 第10代天皇。開化天皇の子。

彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。

天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) - 第5代孝昭天皇の子。

大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。

大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。

金山彦大神

大山咋大神

祭神の関係略図
社伝に従うもので、古事記・日本書紀等の系図とは表記が若干異なる。

 7 孝霊天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 
      
   大倭迹々日百襲比売命
 
   彦刺肩別命
 
   大吉備津彦命  → [吉備氏
  
   吉備津彦命
(稚武彦命)
  → [吉備氏]
  
   大倭迹々日稚屋比売命
 

歴史

社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。

延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが吉備津彦神社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。

戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。

江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆が本社を造営した。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成した(元禄10年(1697年)に完成)。

明治5年(1872年)、近代社格制度において県社に列し、昭和3年(1928年国幣小社に昇格した。

昭和5年(1930年)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に完成したものである。
境内
本社境内

社殿は、夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで祭文殿の鏡に当たる造りになっている。吉備津彦神社の「朝日の宮」の別称はこれに因むという。

主要社殿

本殿 - 元禄10年(1697年)に岡山藩主の池田綱政による再建時のもの。桁行三間、梁間二間の流造檜皮葺。岡山県指定文化財に指定されている[3]

渡殿

祭文殿

拝殿


石造大燈籠

随身門

平安杉

神池 - 島(鶴島)・亀島・五色島が浮かぶ。


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