吉井 理人千葉ロッテマリーンズ 監督 #21
千葉ロッテマリーンズ投手コーチ時代
(2021年6月6日 横浜スタジアム
左は佐藤都志也)
基本情報
国籍 日本
出身地和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)
生年月日 (1965-04-20) 1965年4月20日(59歳)
身長
体重188 cm
95 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1983年 ドラフト2位
初出場NPB / 1985年9月16日
MLB / 1998年4月5日
最終出場NPB / 2007年9月21日
MLB / 2002年9月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
和歌山県立箕島高等学校
近鉄バファローズ (1984 - 1994)
ヤクルトスワローズ (1995 - 1997)
ニューヨーク・メッツ (1998 - 1999)
コロラド・ロッキーズ (2000)
モントリオール・エクスポズ (2001 - 2002)
オリックス・ブルーウェーブ
オリックス・バファローズ (2003 - 2007)
千葉ロッテマリーンズ (2007)
監督・コーチ歴
北海道日本ハムファイターズ (2008 - 2012)
福岡ソフトバンクホークス (2015)
北海道日本ハムファイターズ (2016 - 2018)
千葉ロッテマリーンズ (2019 - 2021)
日本代表 (2021 - 2023)
千葉ロッテマリーンズ (2023 - )
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、プロ野球監督、体育学者。学位は体育学修士(筑波大学大学院・2016年)。
現役時代は近鉄バファローズを皮切りに、日本プロ野球(以下:NPB)4球団・メジャーリーグベースボール(以下:MLB)3球団でプレー。2007年に現役を引退してからは、野球解説者としての活動期間(2013年・2014年)[1][2]をはさみながら、パシフィック・リーグ3球団でのコーチを経て、2023年から千葉ロッテマリーンズの一軍監督を務める。
また、2014年度以降は、筑波大学大学院の人間総合科学研究科博士前期課程体育学専攻野球コーチング論研究室の学生として野球のコーチング理論を研究(詳細後述)。2016年には、日本ハムの一軍投手コーチへ復帰する一方で、プロ野球シーズンの前に同課程から修士(体育学)の学位を授与されている[3]。 高校までを和歌山県で過ごす。東尾修とは卒業した小学校・中学校・高校が同じで、吉井は東尾と同じ背番号21を希望していた。 中学生時代は陸上競技の円盤投で近畿大会に出たこともある[4][5]。県立箕島高校では2年生の時、1982年春の第54回選抜に控え投手として出場。準々決勝では上野山辰行投手(同志社大)をリリーフして甲子園初登板を果たすが、エース榎田健一郎を擁するPL学園に0-1で惜敗。1年上のチームメイトに住吉義則、畑山俊二がいた。翌年にはエースとして第65回全国選手権に駒を進める。この大会では3回戦に進出するが、津野浩のいた高知商に敗退。高校同期に山下徳人がいる。 1983年11月22日に行われたドラフト会議にて近鉄バファローズから2位指名を受け、入団。 2年目の1985年に一軍初登板を果たすと、4年目の1987年には初勝利を挙げた[6]。 1988年は、抑え投手として4月に4勝0敗2S、16イニングを投げて防御率0.00という成績で月間MVPを獲得。以後も活躍を続け、最終的に、50試合に登板して10勝2敗24セーブ、防御率2.69の成績を残した。また、リーグトップの34セーブポイントを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得。「10.19」でも登板した。 1989年は、5勝5敗20セーブ、防御率2.99の好成績を残した。日本シリーズでは、第2戦、第3戦、第5戦 - 第7戦に登板した。第2戦、第3戦、第6戦はいずれも無失点で、特に、第2戦、第3戦の試合終了に際しては、相手の巨人打線について、加藤哲郎らとともに(加藤哲郎 (野球)#「巨人はロッテより弱い」騒動を参照)「打たれる気がしない」[7]、「気の抜ける打線」[8]などと、広言していた。第5戦では、二死一・三塁の場面から、仰木彬監督の指示でウォーレン・クロマティを敬遠して原辰徳と勝負して満塁本塁打を打たれ、シリーズの流れを大きく巨人に傾けさせることとなり、試合終了後の談話では、満塁として投げにくかったという趣旨のこと[9]、あの球ではいくら不調の原でも打つという趣旨のこと[10]など、ショックを感じさせず、他人事のように「独演会」状態で話し続けたという[11]。第7戦では、登板を告げられ、走ってマウンドに行くというパフォーマンスをやったが、中畑清に「引退の花道」となる本塁打を打たれるなどし、走って疲れたという趣旨のコメントをした[12]。 1990年も主に抑えとして45試合に登板し、8勝9敗15セーブ、防御率3.39の成績を収めた。 1991年は21試合の登板で2勝1敗2セーブに留まり、抑えの座は赤堀元之に明け渡した。 1992年は9試合の登板に留まったが、防御率は2.31であった。 1993年からは先発投手に転向した。この時期には、一軍監督・鈴木啓示との間で確執があったことが報じられている[13]。 1995年シーズン開幕直前に西村龍次との交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍。ヤクルトでは先発陣の一角として活躍し、先発だけでの初の2桁勝利を挙げ、初めて規定投球回にも到達、リーグ優勝・日本一に貢献した。 1996年は、チームが低迷する中、先発ローテーションを守り二年連続2桁勝利を達成。 1997年は、8月5日の読売ジャイアンツ戦の3回裏に、バックネット裏にいたと思われる観客がレーザーポインターによると思われる光線を登板中の吉井の顔面に照射するという事件が起きた[14]。眼に光線を受けた吉井はすぐさまマウンドを下りバックネット裏を指して抗議。犯人・狙った意図は未だ不明である。シーズンでは、終盤まで最優秀防御率のタイトル争いに加わりハイレベルな戦いをしていた。選手の個人タイトルにも理解があった(吉井談[15])野村は「個人タイトルは選手の勲章だ」と言って、あと数イニング無失点なら最優秀防御率に手が届く位置にいた吉井に「せっかくのチャンスやないか」とわざわざ登板機会をつくった。吉井は「ありがとうございます!それなら投げてきます!」と勇んでマウンドに上がったものの、あえなく打ち込まれてしまい防御率は2.99となる。タイトルを取った広島の大野豊とは0.14差のリーグ4位となった[15]ものの、3年連続で二桁勝利となる自己最高の13勝を記録し、リーグ優勝・日本一に貢献する。 同年シーズンオフにFA権を行使。メジャーを含む8球団ほどから声がかかり、ヤクルト残留か移籍かを悩む吉井に野村は納会の席で「ヤクルトを出なさい」と助言した[15]。これについて吉井は「この年、ヤクルトはリーグ優勝、西武との日本シリーズにも勝って2年ぶり4回目の日本一になった。僕は13勝6敗。先発として3年連続2ケタ勝利を記録した。指揮を執る監督が戦力ダウンを危惧して引き留めるならまだしも、野村監督の口から出てきた言葉はまったく逆。どういうつもりで言っているのか一瞬、理解できなかったが、疑問はすぐに氷解した。野村監督と言えば「ID野球」が代名詞。アタマを使った野球、論理的な解説で知られるが、実際は情に厚く、親身になって選手のことを考える監督だった。つまり、多くの球団がおまえを必要としているし、請われるうちが華、外の世界も知ってステップアップしてこいと尻をたたいてくれたのだ」と語っている[15]。 団野村を代理人として中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、西武ライオンズ、阪神タイガース、横浜ベイスターズの国内5球団からの誘いを断り、ニューヨーク・メッツと1年20万ドル+出来高で契約。NPB史上初のFA権行使によるメジャー移籍となった[16]。 1998年は、4月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板初先発を果たし、7回を3安打無失点でメジャー初勝利を挙げる。5月21日のシンシナティ・レッズ戦では、9安打3四球ながら1失点に抑え、野茂英雄に次ぎ日本人メジャーリーガー史上2人目の完投勝利を挙げるなど、前半戦を16試合の先発で4勝4敗、防御率3.42、WHIP1.29の成績で折り返す(6月に野茂がドジャースからメッツにトレード移籍し再びチームメイトにもなった)。8月には背番号を日本時代と同21に変更した。しかし、後半戦は13試合の先発で2勝4敗、防御率4.52、WHIP1.25の成績に終わった。8月6日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では捕手のマイク・ピアッツァと配球を巡って口論になったが、その後は一緒に食事に出かけるほどに仲が良くなった[17]。11月12日には2年500万ドルでメッツと再契約。 1999年は、右膝痛にも悩まされ、前半戦は17試合の登板で6勝7敗、防御率5.02、WHIP1.40の成績に終わる。しかし、8月には2勝1敗、防御率2.51、WHIP0.80と好投しチームの月間最優秀投手に選ばれ、9月5日のコロラド・ロッキーズ戦では10勝目を記録。8月以降は2試合のリリーフ登板を含む11試合に登板し5勝1敗、防御率2.31、WHIP0.96と復調した。アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第1戦では、日本人メジャーリーガー初のポストシーズン開幕投手となり、ランディ・ジョンソンと投げ合った。
経歴
プロ入り前
近鉄時代
ヤクルト時代
メッツ時代1998年に使用したメッツ時代のユニフォーム
Size:141 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef