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.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}吉井(よしい) 友実(ともざね)
生年月日1828年4月10日
出生地・薩摩国鹿児島城下加治屋町
没年月日 (1891-04-22) 1891年4月22日(63歳没)
前職武士(薩摩藩士)
称号正二位勲一等伯爵
元老院議官
在任期間1875年4月25日 - 1876年6月7日
元老院議官
在任期間1878年5月6日 - 1881年1月10日
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吉井 友実(よしい ともざね、文政11年2月26日(1828年4月10日) - 明治24年(1891年)4月22日)は、日本の武士・薩摩藩士、官僚。正二位勲一等伯爵。通称を仁左衛門、中介、後に幸輔。変名を山科兵部。 薩摩藩士・吉井友昌の長男として鹿児島城下加治屋町において生まれる。西郷隆盛・大久保利通・税所篤らとは幼少期からの親友とされている。 藩主・島津斉彬の藩政改革の下、安政3年(1856年)に大坂薩摩藩邸留守居役などを務めて諸藩の志士との交流を重ね、若手改革派の1人として活躍する。 斉彬の死後、大久保利通や税所篤ら同志40名と共に脱藩を企てたものの藩主・島津忠義の慰留をうけて文久元年(1861年)に大目付役に就任。翌2年(1862年)の島津久光(忠義の父)が行った率兵上洛及び勅使・大原重徳との江戸下向に随行、後に徒目付や御用部屋書役などを務め、西郷・大久保らと始めとする精忠組の中心人物として藩政をリードし、尊王討幕運動を推進した。 元治元年(1864年)には流罪に処されていた西郷の復帰を嘆願し、その召還使として渡島した[1]。同年の禁門の変では、長州藩を迎撃、第一次長州征討で西郷が征長総督・徳川慶勝に長州処分を委任された際、税所と2人で西郷と共に長州に乗り込み、その戦後処理に努めた。これに先立ち長州藩に対する朝廷の決意を固めるため、土佐藩士乾正厚、久留米藩士大塚敬介
来歴
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)
慶応3年(1867年)、小松清廉・西郷らと共に土佐藩の板垣退助・中岡慎太郎らと薩土密約を結び、翌慶応4年(1868年)、戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、自ら兵を率いて旧江戸幕府軍を撃退するなど多大な功績をあげ、明治2年(1869年)に賞典禄1,000石を授けられた[2]。
維新後は参与や弾正大忠、弾正少弼と出世したが、明治3年(1870年)3月に「不束かな次第」があったとして謹慎処分を受ける[3]。同年4月には謹慎があけ、民部少輔兼大蔵少輔、民部大丞などを歴任した。
明治4年(1871年)に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任。宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年(1873年)の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かつこととなった。
明治8年(1875年)に元老院議官、明治10年(1877年)には侍補に任命され、翌11年(1878年)の大久保暗殺を契機に元田永孚・佐々木高行・土方久元らと共に天皇親政を政府に提案したが採用されず、明治12年(1879年)3月に政府により工部少輔兼任とされ工部省へ異動となった。同年10月の侍補廃止後は工部省に留まり、明治13年(1880年)6月に工部大輔に昇進したが、明治14年(1881年)中に日本鉄道会社への転出が決まり、翌明治15年(1882年)1月に工部大輔を辞任して2月に日本鉄道社長となり、一旦官界から離れた[4]。
日本鉄道の方針として東京 - 前橋間の開通を実現させるべく、工事を政府に委託する代わりに資金を会社が負担する折衷案で工事を進めた(この当時は会社に鉄道技術が殆ど無く、政府の独占だったため)。