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中華人民共和国 安徽省 合肥市
略称:合
別称:廬
旧称:合?、廬州、廬陽
安徽省中の合肥市の位置
中心座標 北緯31度51分0秒 東経117度16分0秒 / 北緯31.85000度 東経117.26667度 / 31.85000; 117.26667
合肥市(ごうひし[1]、がっぴし、中: 合肥市、?音: Hefei Shi)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である。合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連では「がっぴ」と読まれる傾向にある。目次
1 歴史
2 地理
2.1 気候
3 行政区画
3.1 年表
3.1.1 皖北行署区合肥市
3.1.2 皖北行署区巣湖専区
3.1.3 安徽省合肥市
3.1.4 安徽省巣湖地区
3.1.5 巣湖市
4 経済
5 交通
5.1 航空
5.2 鉄道
5.3 港
5.4 市内公共交通
6 教育
7 友好都市
8 出身者
9 脚注
10 外部リンク
歴史 合肥銀河公園
合肥の歴史は古く、紀元前3世紀に秦が合肥県を置き、九江郡に属した。
後漢末期に曹操により派遣された揚州刺史の劉馥が整備し、曹操と孫権の係争地となる。208年、孫権は10万の兵を率いて百日あまり合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。215年、曹操配下の張遼が李典ともに精鋭兵800人を率いて合肥を包囲した呉軍を奇襲、打撃を与えて気勢を削ぎ、その後は7千ほどの兵力で篭城し、呉の10万の大軍を相手に守りきった。そして撤退中の呉軍に追撃をかけ、孫権を徹底的に追い詰めた(合肥の戦い)。その後も張遼は呉軍を一切寄せ付けず、恐れられたことから「遼来遼来」の言葉を生んだ。
三国時代には魏の揚州経略の主要拠点となり、呉からの攻撃も止むことはなかった。230年代初頭に魏の満寵が老朽化した合肥城の北西側に「合肥新城」を築城する。234年、呉の孫権が同城を攻撃してきた際には、魏の曹叡(明帝)が親征を行ってこれを撃退した(現在も同地に合肥新城遺址が残されている)。253年には呉の諸葛恪が攻撃するが、籠城の末にこれを撃退した。
その後隋代には合肥県に廬州府が設置され、明清時代まで続いた。このため廬州の別称でも知られる。
1949年1月21日、国共内戦のさなか中国国民党軍を破った人民解放軍が合肥に入城、2月1日に県を廃して合肥市を建てた。1952年8月25日安徽省人民政府が正式に成立し、合肥市に駐在するようになった。 合肥中心部の淮河路歩行街(歩行者天国)。逍遥津公園の南の道路よりさらに南に位置する。写真左は明教寺で礎石は教弩台=曹操点将台(曹操が弓の訓練に使ったとされる)。
地理