この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "合肥市"
中華人民共和国 安徽省 合肥市
略称:合
別称:廬
旧称:合?、廬州、廬陽
安徽省中の合肥市の位置安徽省中の合肥市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度51分0秒 東経117度16分0秒 / 北緯31.85000度 東経117.26667度 / 31.85000; 117.26667
簡体字合肥
繁体字合肥
.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}?音Hefei
カタカナ転写ホーフェイ
国家 中華人民共和国
省安徽
行政級別地級市
面積
総面積7,266 km²
市区458 km²
人口
総人口(2014)769.6 万人
市区人口(2014)531.8 万人
経済
電話番号0551
郵便番号23000
ナンバープレート皖A
公式ウェブサイト: ⇒http://www.hefei.gov.cn/
合肥市(ごうひし[1]、がっぴし、中: 合肥市、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Hefei Shi)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である。合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連では「がっぴ」と読まれる傾向にある。
歴史合肥銀河公園
合肥の歴史は古く、紀元前3世紀に秦が合肥県を置き、九江郡に属した。
後漢末期に曹操により派遣された揚州刺史の劉馥が整備し、曹操と孫権の係争地となる。208年、孫権は10万の兵を率いて百日あまり合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。215年、曹操配下の張遼が李典ともに精鋭兵800人を率いて合肥を包囲した呉軍を奇襲、打撃を与えて気勢を削ぎ、その後は7千ほどの兵力で籠城し、呉の10万の大軍を相手に守りきった。そして撤退中の呉軍に追撃をかけ、孫権を徹底的に追い詰めた(合肥の戦い)。その後も張遼は呉軍を一切寄せ付けず、恐れられたことから「遼来遼来」の言葉を生んだ。
三国時代には魏の揚州経略の主要拠点となり、呉からの攻撃も止むことはなかった。230年代初頭に魏の満寵が老朽化した合肥城の北西側に「合肥新城」を築城する。234年、呉の孫権が同城を攻撃してきた際には、魏の曹叡(明帝)が親征を行ってこれを撃退した(現在も同地に合肥新城遺址が残されている)。253年には呉の諸葛恪が攻撃するが、籠城の末にこれを撃退した。
その後隋初には合肥県に廬州が設置され、明清時代まで続いた。このため廬州の別称でも知られる。
1949年1月21日、国共内戦のさなか中国国民党軍を破った人民解放軍が合肥に入城、2月1日に県を廃して合肥市を建てた。1952年8月25日安徽省人民政府が正式に成立し、合肥市に駐在するようになった。合肥中心部の淮河路歩行街(歩行者天国)。