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合田 清(ごうだ きよし、文久2年5月7日(1862年6月4日) - 昭和13年(1938年)5月6日)は明治時代から昭和時代にかけての木版画家
。文久2年(1862年)、江戸・赤坂に生まれる。本姓は田島氏、後に明治13年(1880年)から合田氏を称した。明治13年(1880年)に17歳で、兄の田島応親とともに農学研究のためパリに渡るが、その滞在中、同地に留学していた山本芳翠に勧められて彫版師のバルバン木口木版工房において木口木版を学んでいる。ここで湿版写真ネガを下絵に用いてビュラン彫版の白線法版木を金属凸版(複版)化するという本格的な技法を習得している。明治20年(1887年)に帰国すると翌明治21年(1888年)山本芳翠とともに「生巧館」という木口木版工房を開設、長い間、板目木版の伝統を培ってきた日本木版画界に本格的な木口木版の技法を伝え、その指導に努めている。従来の日本には無かった技術のため、技術資材開拓に非常に苦労を重ねたといわれる。当時またの名を写真木版ともいわれており、写真、絵画を精巧に模して活字とともに印刷ができるこの木口木版は明治中期の日本に好意的に迎えられ、写真製版の技術が整うまでの短い期間であったが、新聞、教科書などの多くに合田やその門人の名前を残した。朝日新聞社特派をしていた芳翠による直写を合田が木口彫版した明治21年(1888年)8月1日の朝日新聞絵付録の『磐梯山噴火真図』が最も著名であり、他に日光その他名所風景画に優れた作品がある。
明治29年(1896年)に東京美術学校西洋画科が開設された際、30年にわたってフランス語を教えている。また、明治38年(1905年)には版木に湿版写真ネガの下絵を貼り込む方法を考案しており、伊上凡骨が実際に彫っている。これにより、複製版画の制作に従来のような手間がかからなくなり、数十枚単位で複製を作ることが可能となった。合田の「生攻館」工房からは多くの木口彫工を送り出した。享年77。
作品
「一日の終り」 木口木版 エミール・アダン画 合田清彫 千葉市美術館所蔵 明治18年(1885年)頃
「磐梯山噴火真図」 木口木版 山本芳翠画 合田清彫 郡山市立美術館所蔵 1888年
「大正天皇」 銅版画 1900年
参考文献
岡畏三郎著『原色浮世絵大百科事典』第10巻 大修館書店、1981年 ※137頁
吉田漱『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年 ※85頁
永田生慈『資料による近代浮世絵事情』 三彩社、1992年 ※148頁
千葉市美術館編 『千葉市美術館所蔵作品選』 千葉市美術館、1995年
関連項目
ゴウダソウ
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