合田好道
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合田 好道(ごうだ よしみち[1]、別呼称・こうどう[2]1910年(明治43年)[1][3][4][5][6] - 2000年(平成12年)2月6日[2][4][5][7][8])は、日本の画家陶芸家

益子焼の窯元や陶芸家志望の若者たちを指導し、「民芸の町・益子」「陶芸の町・益子」を作り上げた、戦後の益子の歴史における象徴的な人物の一人であり[3]、「益子のお目付役」と呼ばれ、濱田庄司益子焼の中興の祖とするならば、同じ益子焼の陶芸家であった島岡達三から「濱田の精神の伝導者」と呼ばれ[8]、益子の陶芸家たちへの思想的影響力が強かった人物である[1][9]
生涯
生い立ち

1910年明治43年)、香川県[8]三豊郡豊濱町(現・観音寺市)に、味噌醤油醸造業であった父・合田辧治、母・まつの次男として生まれる[1][2][3][4][5][6]

1916年大正5年)、6歳の時に父母と共に当時の朝鮮慶尚北道興海に移住[6]。そして1919年大正8年)、9歳の時に兄・正隆と二人で帰国し、祖母・タネと暮らし始める[6]

1924年大正13年)に祖母が78歳で亡くなった[6]

1925年大正14年)、旧制三豊中学校(現:香川県立観音寺第一高等学校)を三年で中退し[2][4](後の第68代内閣総理大臣、大平正芳と同郷・同窓)。別府に移住する[2]

親戚の精米所や旅館や電気工事店に転々と従事していたが、やがて兄の影響で画家を志望するようになる[2][4][6]
上京と工芸古美術修行

1929年昭和4年)、一年間写生を続けた後に、19歳の時に画家を志して上京し[10][3][4][5][6][8]、同年春陽会に入選する[2][4][5][6][8]

この当時は若き油絵画家として将来を有望視されていたという[9][8]

しかし、東京の画壇の人間関係を嫌がるようになり、中央画壇から身を引き隠遁を模索するようになる[9]

1930年昭和5年)、小山富士夫鳥海青児料治熊太、そして料治の紹介で会津八一と知り合い、会津の骨董見聞や朝鮮慶州旅行に同道し九州臼杵を旅することで数多くの古美術に触れその見識を深める[2][3][4][6]

そして古美術への審美眼は濱田庄司も認めるところであった[5]

1939年昭和14年)、兄・正隆の紹介で朝鮮京城(現:ソウル市)の百貨店に勤務する[6]。そして小山富士夫の紹介で浅川伯教と知り合う[2][6]

1942年昭和17年)、前年12月に太平洋戦争が勃発するが、日本の敗戦を早々に予想し日本に引き揚げ、持ち帰った古美術を売り生活しながら油絵を描いていた[6]

伊東安兵衛と喫茶店を兼ねた工芸店「門」を開き[2][3][5]、伊東の紹介により、富本憲吉石黒宗麿北大路魯山人荒川豊蔵濱田庄司らの作品を店に陳列した[2][4][5]


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