司馬遼太郎
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司馬 遼?太郎
(しば りょうたろう)
講談社『週刊現代』10月1日号(1964)より
誕生福田 定一(ふくだ ていいち)
1923年8月7日
日本大阪府大阪市南区難波西神田町(現在の浪速区塩草)
死没 (1996-02-12) 1996年2月12日(72歳没)
日本大阪府大阪市中央区法円坂国立大阪病院[1]
墓地西本願寺大谷本廟
職業小説家ノンフィクション作家評論家
言語日本語
国籍 日本
活動期間1955年 - 1996年
ジャンル歴史小説推理小説戯曲随筆紀行
主題日本の歴史風土
代表作『梟の城』(1959年)
竜馬がゆく』(1962年 - 1966年)
燃えよ剣』(1964年)
国盗り物語』(1965年)
坂の上の雲』(1968年)
街道をゆく』(1971年 - 1996年、紀行文)
翔ぶが如く』(1976年)
項羽と劉邦』(1980年)
主な受賞歴直木三十五賞(1960年)
菊池寛賞(1966年)
毎日芸術賞(1968年)
吉川英治文学賞(1972年)
日本芸術院賞恩賜賞(1976年)
読売文学賞(1982年・1987年)
朝日賞(1983年)
日本文学大賞(1984年)
大佛次郎賞(1988年)
文化勲章(1993年)
従三位・賜銀杯一組(1996年、没時叙位下賜)
デビュー作福田定一名義:
『名言随筆・サラリーマン』(1955年)
司馬遼?太郎名義:
『ペルシャの幻術師』(1956年)
影響を受けたもの

萩原延壽坂口安吾 など

署名
公式サイト司馬遼?太郎記念館
ウィキポータル 文学
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司馬 遼?太郎(しば りょうたろう、1923年大正12年〉8月7日 - 1996年平成8年〉2月12日)は、日本小説家ノンフィクション作家評論家日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。位階従三位。本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼?(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」からきている。

大阪府大阪市出身。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆紀行文などでも活発な文明批評を行った。
生涯
生い立ち

1923年大正12年)8月7日大阪府大阪市南区難波西神田町(現在の浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

1930年昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。

1936年(昭和11年)、私立上宮中学校(現・上宮高等学校)に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける[注釈 1]。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。

1939年(昭和14年)、中学生だった司馬にも日中戦争第二次世界大戦が影を落としており、上宮中学の配属将校から学校教練を受けている。ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃三八式歩兵銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃ボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し[2]、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機関銃のように連発式」の自動小銃が正式採用されていたのはアメリカ軍M1ガーランドだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず[3]、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのスプリングフィールドM1903小銃が主力小銃であり、1941年12月の真珠湾攻撃による日本とアメリカの開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた[4]。また、ドイツ国防軍Kar98k[5]、イギリス軍のリー・エンフィールド[6]ソ連労農赤軍モシン・ナガン M1891/30[7]など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は第二次世界大戦が終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。

司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、中国人朝鮮人に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるアンビバレンスな状態であったと自己分析している[8]

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校蒙古語部(現・大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)に入学[9]。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事なガマの油売りを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学は嫌いであったが読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。
軍歴

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。司馬は、軍隊生活になかなか馴染めず、訓練の動作にも遅れが目立ち、同期生のなかでも戦車の操縦はとびきり下手であったが、「俺は将来、戦車1個小隊をもらって蒙古馬賊の大将になるつもりだ」などと冗談を言うなど、笑みを絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しになっていた[10]

部隊で一緒だったのが石濱恒夫であり、石濱と司馬はこの時以来、司馬が亡くなるまで親交が深かった。

戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま中国に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州国牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌1945年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。

敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり[11]、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」[注釈 2][12]からであると述懐している[13]復員後は直ちに図書館通いを再開する。
記者時代

戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[注釈 3]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。


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