司馬?
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司馬攸」とは別人です。

司馬 ?(しば ゆう、? - 永寧2年5月7日302年6月18日))は、西晋皇族は子徽。司馬懿の第8子。母は張夫人。
生涯

清廉潔白であり、高貴な様で評判であった。謙虚で慎ましい人柄だったが、何の才能も持ち合わせていなかった。

嘉平2年(250年)、司馬懿が政変を起こして朝廷を掌握する(高平陵の変)と、司馬?は平楽亭侯に封じられた。咸熙元年(264年)、五等爵の制度が復活されると、開平子に改封された。

泰始元年(265年)、西晋が興ると、梁王に封じられ、食邑5358戸が与えられた。後に封国へ出鎮し、北中郎将・都督?城守諸軍事に任じられた。当時、諸王は下級官吏を自ら選任することが出来、司馬?は汝陰郡の優れた官吏である張蕃を中大夫に取り立てた。だが、張蕃は本名を張雄と言い、かねてより品行が悪くかつては曹爽の取り巻きであったが、名を改めて過去の経歴を秘匿する事で司馬?と修好を深めていた。この事実を有る官吏が上奏すると、司馬?は1県が削られた。

咸寧年間、陳国汝南郡南頓県を増封された。太康年間、孔恂と交代で監豫州諸軍事・平東将軍に任じられ、許昌を鎮守した。しばらくして、司馬?は元の職務のままで下?王司馬晃に代わって監青徐二州諸軍事となり、安東将軍に進んだ。

元康元年(291年)4月、征西将軍に昇進し、秦王司馬柬に代わって都督関中諸軍事に任じられ、護西戎校尉を兼任した。しばらくして侍中を加えられ、都督梁州諸軍事に進んだ。9月、召喚を受けて入朝し、衛将軍録尚書事に任じられた。

元康4年(294年)、弟の趙王司馬倫は関中を守備していたが、その刑賞は不公平であり、関中を混乱させて?の反乱を招いてしまった。

元康6年(296年)1月、行太子太保に任じられ、朝廷より1000の兵と100の馬を与えられた。5月、朝廷は司馬倫が関中を乱したと判断して司馬倫を更迭し、代わりに司馬?は征西大将軍・都督涼雍二州諸軍事に任じられ、関中を鎮守して、左右長史・司馬を設置した。雍州刺史解系は弟の解結と共に、司馬倫の側近孫秀を処刑して挙兵した?・羌に謝罪するべきだと主張した。朝廷の第一人者であった張華はこの事を司馬?に伝えると、司馬?は孫秀の処刑に一度は同意したが、孫秀の友人の辛冉が司馬?に許しを請うたので、死罪を免じた。

8月、秦州・雍州の?は?人の斉万年を皇帝に推戴して自立した。11月26日、司馬?は西戎校尉を兼務し、好畤県に兵を駐屯させ、安西将軍夏侯駿と共に建威将軍周処・振威将軍盧播らを統率して斉万年討伐に当たった。かつて、司馬?は法を犯して周処から糾弾された事が有り、一方的に周処を忌み嫌っていた。297年1月4日、司馬?は周処に五千の兵で斉万年の七万の兵と戦う様命じた。周処は「後援がない軍は必ず負けます。我が身が滅ぶだけなら構いませんが、それが国の恥となります」と進言したが、司馬?と夏侯駿は無視した。司馬?は周処軍の将兵が食事をする時間も与えずに出撃を強要し、一切の後援を断絶させた。盧播・解系もまた周処救援の為に出兵せず、周処は奮戦するも戦死した。この一件で、朝廷より叱責を受けた。

司馬?は傲慢であり軍備を整える事も無く、その後も斉万年の侵攻を止める事が出来なかった。その為、積弩将軍孟観が討伐軍の総大将に立てられた。

元康9年(299年)1月、孟観が斉万年を破って捕らえると、司馬?は入朝して征西大将軍・尚書令・領軍将軍・録尚書事に任じられた。

当時、洛陽では賈南風賈謐郭彰を始めとした賈氏一族が権勢を誇っており、司馬倫はその誅殺を目論んで司馬?に持ち掛け、司馬?もこれに同意した。

永康元年(300年)4月3日、司馬倫と共に恵帝から密詔を受けたと称し、皇后賈南風を廃位して平民に落とした。4月7日、太宰・守尚書令に任じられ、2万戸を加増された。司馬倫が朝政を補佐するようになると、司馬?は星象変化が生じているのを発見し、占いを行った結果、不吉な兆候とされた。司馬倫の側近孫秀は禍を受けるのを恐れ、司徒を省いて丞相として司馬?に与えた。これは形だけの昇進であり、司馬?へ禍を擦り付けようとしたものであった。有る人は「司馬?には実権などなく、恩恵などあるはずもない」と言った。その為、司馬?は固くこれを辞退し、決して受けなかった。

永康2年(301年)1月9日、司馬倫が帝位を簒奪すると、司馬?は宰衡として朝政を取り仕切る様命じられ、武士100人、軒懸の楽団10人が下賜された。4月、斉王司馬冏らが政変を起こして司馬倫が廃位されると、司馬?らは上書して「趙王父子の凶逆は誅に伏すべきです」と述べた。間もなく司馬倫は死を賜った。同年(永寧元年)6月、太宰に任じられ、司徒を兼任した。また、高密王司馬泰に代わって宗師となった。

永寧2年(302年)5月7日、司馬?はこの世を去った。喪葬は汝南文成王司馬亮の先例に倣うものとされた。諡号について議論がなされると、博士蔡克は司馬?が国家の重鎮でありながら、災難を全て傍観して義を尽くさなかった事から、諡号を霊とすべきであるとした。


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