司馬消難
[Wikipedia|▼Menu]

司馬 消難(しば しょうなん、生没年不詳)は、中国南北朝時代政治家軍人は道融[1][2]本貫河内郡温県[3][4][5]
経歴

司馬子如の子として生まれた。北斉に仕えて著作郎を初任とした。父の司馬子如が北斉の朝廷で高位に上ると、消難も賓客を好んで、?・王元景魏収・陸?・崔贍らと交遊した。中書・黄門郎を歴任した。?馬都尉・光禄卿に任ぜられ、北豫州刺史として出向し、虎牢に駐屯した。州における汚職のため御史に弾劾された。また妻の公主との仲は険悪だった[6][7][2]

天保9年(558年)4月[8][9][10][11]、消難は上党王高渙とのつながりを文宣帝に疑われ、北周に亡命した。晋公宇文護達奚武楊忠を派遣して消難を迎え、達奚武とともに入朝した。大将軍に任ぜられ、?陽郡公に封ぜられた[1][12]天和6年(571年)4月、柱国となった[13][14]建徳2年(573年)5月、大司寇に進んだ[15][16]。建徳4年(575年)7月、前二軍総管となり、武帝に従って北斉を討った[17][18]。閏月、梁州総管に任ぜられた[19]大象元年(579年)7月、大後丞に転じた。娘の司馬令姫を後宮に入れて静帝の正陽宮皇后に立てさせた[20][21]。まもなく?州総管として出向した[1][12]

大象2年(580年)、楊堅が北周の丞相となると、消難は尉遅迥の乱に呼応して挙兵した。開府の田広らを腹心とし、総管長史の侯莫陳杲や?州刺史の蔡沢ら40人あまりを殺した。所管する?・随・温・応・土・順・?・環・岳の9州と魯山・甑山・沌陽・応城・平靖・武陽・上明・?水の8鎮は乱に従った。子の司馬泳を人質として南朝陳に送り救援を求めた。楊堅は襄州総管の王誼を元帥として消難を討たせた。8月、消難は王誼の軍がやってきたと知ると、夜のうちにその麾下を率いて、陳に亡命した[1][12]。陳の宣帝は消難を都督?随九州八鎮・車騎将軍司空に任じ、随国公に封じた[22][12][23][24]。まもなく陳の大都督水陸諸軍事となった[23][24]。陳軍を率いて北周の江州を攻撃し、北周の江州刺史成休寧に撃退された[25]

禎明3年(589年)、が陳を攻撃すると、湘州刺史の施文慶とともに陳の大監軍となった[26]建康が陥落すると、隋軍に捕らえられて長安に連行された。特別に死罪を許されて、楽戸に配属された。20日してそれも許され、旧恩により文帝の引見を受けた。まもなく家で死去した[27][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef