司馬懿
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司馬懿


太傅
出生光和2年(179年
司隷河内郡温県孝敬里
死去嘉平3年8月5日251年9月7日
洛陽
?音S?m? Yi
仲達
諡号宣公 → 宣王 → 宣帝
廟号高祖
主君曹操曹丕曹叡曹芳
司馬防
母奇庭
兄弟司馬朗司馬孚、司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通、司馬敏
張春華
司馬師司馬昭
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司馬 懿(しば い、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: S?m? Yi、 光和2年(179年) - 嘉平3年8月5日251年9月7日))は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将政治家は仲達(ちゅうたつ)。において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。西晋が建てられると廟号を高祖、諡号を宣帝と追号されたため、『三国志』では「(司馬)宣王」と表記されるが、独立した伝は立てられていない。
生涯
名門の家柄

河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次男で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬?の12世孫にあたる[1]司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。

兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(中国語版)(季達)・司馬恂(中国語版)(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた[注釈 1]。妻に張春華、息子に司馬師司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。

司馬懿は若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれ、崔?にも高く評価された[2]。内心嫌悪している時も表面上は穏やかに振る舞い、疑り深いが臨機応変に動いたという[3]
曹操への出仕

建安6年(201年)、司馬懿は河内郡で上計に推挙された。当時司空だった曹操は司馬懿のことを聞き、その出仕を求めたが、『晋書』宣帝紀によれば、司馬懿は漢の衰微を知っており、曹操に屈することをよしとしなかったため、風?(リューマチ)を理由に辞退した。当時、名士が高官の招請を断ることは一種の流行となっていた[4]

司馬懿の出仕については諸説あり、『晋書』宣帝紀によれば、身体の不調を信じなかった曹操は夜に人をやって刺させたが、司馬懿は臥したまま身動きを取らなかった。その後、建安13年(208年)に「丞相となった曹操が、司馬懿を文学掾に任じて「またためらうようであれば、捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕し、黄門侍郎・議郎・丞相主簿などを務めた[5]。また『北堂書鈔』に引く『魏略』によれば、好学な司馬懿に対し、己を才に欠けると見なしていた曹洪が補佐を求めた。司馬懿は曹洪との交際を恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。そして曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨てて命に応じたという[6]

建安20年(215年)に曹操が陽平関の戦いに勝利し漢中を制した際、その勢いで劉備が支配して間もない巴蜀を平定するように進言したが、曹操は「隴を得て蜀を望むことはしない」と言って、この意見を退けたという[7][注釈 2]

建安22年(217年)、太子中庶子に任じられた。曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒していたが、曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていた。司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るに至り、陳羣呉質朱鑠とともに「太子四友」と称された[7]。司馬懿は陳羣に次ぐ第二席を占めている[4]。この頃、疫病で兄の司馬朗を失った。

建安24年(219年)、関羽荊州から北上して樊城を陥れようとした。この時、首都の許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。司馬懿は?済と共にそれに反対した[7][9]。さらに孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すことを献策し、見事に成功を収めた[10]。この年、厳格で知られる父の司馬防が死去した。
蜀との戦いの時代、描かれた諸葛亮と司馬懿清の時代に描かれた諸葛亮と司馬懿の対峙の様子

建安25年(220年)、曹操が死去した際に、遺体を?に運び葬儀を主催することを曹丕に命じられた[11]。曹丕が魏王に即位すると、司馬懿は河津亭侯に封じられ、丞相長史となった。同年、献帝からの禅譲を受け魏の皇帝となった曹丕は、司馬懿を尚書とした。また督軍、御史中丞にも任じ、安国郷侯に封じた。

黄初2年(221年)、侍中・尚書右僕射となった。親征を行う曹丕の留守を守っていた司馬懿は、黄初5年(224年)に向郷侯に改封され、仮節・撫軍大将軍・録尚書事に叙せられ、5000人の兵権を与えられた。これは有力な将軍であった夏侯尚が病死したことによるものであった[11]。司馬懿があまりに負担が大きいとして辞退すると、曹丕は「雑事にかまけてばかりで、休む暇もないのだ。栄誉を与えるというのではなく、ただ苦労を取り持ってほしいのだよ」と言ったため、引き受けざるを得なくなった[7]

黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託された。曹叡は母の甄氏が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。同年、襄陽に侵攻した諸葛瑾・張覇らを徐晃らとともに破り、張覇を斬った。この功により驃騎将軍に昇進し[7]、曹真・曹休に次ぐ第三位の軍人となった。

太和元年(227年)6月、司馬懿は勅命によって宛城に駐屯し、荊豫二州諸軍事となり、魏の南部を守る役目に就いた。京劇の司馬懿。演目は「空城計」。馬上から、城壁の上の諸葛亮に語りかけている。右手に鞭を持ち、左手で馬の手綱を握っている。京劇の演技の約束ごとで、彼がいま馬に乗っていることを示す。顔が白いのは、京劇のくまどりの約束ごとで、悪役であることを示す。

太和2年(228年)、孟達蜀漢諸葛亮と内応して魏に叛いた。諸葛亮は孟達に司馬懿を警戒するよう伝えていたが[12]、宛城から孟達の任地である上庸新城までは、通常の行軍で1か月はかかる道程であり、孟達は十分対処できると考えていた。


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