司馬師
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司馬師


大将軍
出生建安13年(208年
河内郡温県
死去正元2年閏1月28日255年3月23日
許昌
?音S?m? Sh?
子元
諡号景王→景帝
廟号世宗
主君曹叡曹芳曹髦
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司馬 師(しば し)は、中国三国時代の武将・政治家。は子元。西晋が建つと世宗の廟号、景帝の諡号を贈られた。司馬懿の長男で、司馬昭司馬?の同母兄。生母は張春華[1](宣穆皇后)。
生涯
実権を受け継ぐ

司馬師は上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。若いときから「雅にして風彩あり」、「沈毅にして大略多し」など呼ばれるほどに評判が高く、夏侯玄何晏らと名声を等しくした。何晏は常々、司馬師を称えて「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たす事ができる」と言っていた。魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、中護軍(中領軍とともに皇帝近衛兵の指揮を執る役職)に昇進する。

司馬師は司馬懿と共に曹爽に対するクーデターの計画を練ったが[1]、弟の司馬昭すら兄の考えを知る事はできなかった。正始10年(249年)正月、クーデター決行日の早暁、司馬師は司馬孚と共に速やかに洛陽宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。その整然とした陣容を見た司馬懿は「子元もやるようになった」と言った。司馬師はかねてから死を覚悟した壮士(死士)を3000人ほど養っており[1]、クーデターに際してたちまち集結したが、周囲の者はどこから来たか分からなかった。司馬師はこの功績により衛将軍となった。「高平陵の変」も参照

嘉平3年(251年)8月に司馬懿が亡くなると「伊尹既に卒するも、伊陟事を嗣ぐ」と言われ、撫軍大将軍として魏の全権を掌握した。嘉平4年(252年)には大将軍になった。
呉との戦い

同年、孫権の死に乗じて胡遵諸葛誕らにの東興を攻めさせたが、呉の大将軍の諸葛恪に大敗した[1]東興の戦い)。この敗戦の罪を諸将に問うべきという意見がこの時朝廷ではあったが、司馬師は「諫言を聞かずここに至った。これは私の過失である。諸将に何の罪があろうか」とその罪を自ら引き受けようとしたため、かえって人々は皆恥じてその度量に服したという[1]。ただし胡三省は「(司馬師のこうした言動は)自己の権力を固めようとしたものである。盗賊にもそのやり方がある。ましてや国を盗むならなおさらであろう」と辛辣な評価を下している(『資治通鑑』)[2]

嘉平5年(253年)4月、諸葛恪が合肥新城を包囲すると、朝議では呉が兵力を分けて、淮水や泗水を抑える事を懸念する声が相次いだが、司馬師は「諸葛恪は呉の政治を執るようになって日が浅く、目先の利に動かされているのだ。合肥の兵を併せたところで、徐州青州を脅かす余裕はあるまい。こちらにしても、河口は一つだけではないのだ。多勢でならば兎も角、少人数では守るには兵力が足りない」と言った。 そして太尉の司馬孚・鎮東将軍の?丘倹揚州刺史文欽らに、20万人の軍勢を差し向けさせた。?丘倹・文欽は戦う事を求めたが、司馬師は「諸葛恪は敵地へ深入りし過ぎており、布陣しているのは死地(進むことも退くこともできない場所)である。それに合肥新城は小城であるが守り易い。攻めたところで落とせまい」とし、命じて高塁を築かせ、敵の疲弊を待った。数ヶ月の間、諸葛恪は張特らが守る合肥新城を力攻めにしたが、攻め落とす事が出来ないばかりか、疫病により多くの兵士が死亡した。同年7月、司馬孚が指揮を執る大軍が諸葛恪を攻撃しようとしたため、諸葛恪は撤退した[注釈 1]

裴松之によれば、この戦いについて?丘倹は「司馬孚殿と我々は計略を立て、要害の地を遮り戦闘を避け、引き返して合肥新城を守りました。将兵は昼も夜も守り続け、100日間頑張りました。死者は泥に塗れ、我が国が軍隊を持って以来、これほどの苦難は存在しなかったでしょう」と上奏している。
曹芳を廃す

正元元年(254年)に天子の斉王曹芳が、張皇后の父の張緝李豊らに勅命を下し、司馬師を排斥して夏侯玄を執政にしようとした。それを察知した司馬師は、密かに李豊を邸へ招いた。事破れたるを悟った李豊は口を極めて司馬師を罵り、激怒した司馬師は配下の壮士に命じて、刀環で李豊の腰を強打させて殺した。ついで張緝や夏侯玄らを捕らえて三族皆殺しにした上、張皇后も皇后の位を廃された。流石に皇帝を害する事はできなかったが、これ以上の難事が増える事を嫌った司馬師は、皇帝の廃位を考えた。嘉平5年九月、皇太后の命令として「皇帝、春秋已に長し……耽じて内寵を淫し、女徳を沈漫し、日に倡優を近づけ、其の醜虐を縦にし……人倫の叙を毀ち、男女の節を乱す……」との理由で曹芳を廃した(この令の内容が、どこまで真実かは不詳。ただし阮籍の「詠懐詩」に、斉王曹芳の荒淫を諷したと見られる詩がある事などから、斉王の荒淫はある程度事実だったと見る向きもある)。曹芳は皇帝としての諡を得られなくなり[注釈 2]、史書には斉王と記される事になる。

廃された斉王の後として、司馬師は彭城王曹拠を挙げたが、郭太后は宗廟における昭穆の序列に合わないとして退け(曹據は曹操の子であり、曹芳やその養父の明帝よりも世代が上になる)、明帝の後を受け継ぐ者が望ましいとし、東海王曹霖(明帝の異母弟)の子である高貴郷公曹髦を挙げた。


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