司馬倫
西晋
皇帝
王朝西晋
在位期間301年
都城洛陽
姓・諱司馬倫
字子彝
生年正始元年(240年)?
没年建始元年4月13日
(301年6月5日)
父司馬懿
母柏夫人
司馬 倫(しば りん)は、西晋の皇族であり八王の乱の八王の一人。一時的に皇帝に即位したが、正史の晋書では皇帝の伝記である本紀には伝が立てられていない。字は子彝。司馬懿の第9子(末子)。 母は柏夫人 太熙元年(290年)4月、司馬炎が崩御し、子の司馬衷(恵帝)が後を継ぐと、元康元年(291年)8月に征東将軍・都督徐?二州諸軍事に任じられた。9月、征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事に進んで関中の守備を命じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。しかし司馬倫の刑賞は不公平であった事から?族・羌族の反乱を招いてしまい、司馬倫は雍州刺史解系と共にこれの討伐に当たったが、司馬倫は側近の孫秀を信任するあまり、それに不満を持つ解系と軍事作戦について意見が対立し、この論争は互いに朝廷へ作戦案を上奏するまでに発展した。朝廷は司馬倫が関中を乱したと判断して解系を支持し、司馬倫を更迭して洛陽に召喚し、代わりに司馬倫の兄である梁王司馬?を征西大将軍・都督雍涼二州諸軍事に任じた。しかし後に司馬倫は解系を讒言して失脚させ、免官に追い込んでいる。 洛陽に帰還した司馬倫は、当時権勢を誇っていた賈謐を始めとした賈氏一派に取り入り、皇后賈南風やその母の郭槐に信任されて中宮に出入りするようになった。しかし司馬倫は録尚書事や尚書令の地位を賈謐らに求めたが、張華と尚書裴?が共にこれに反対したので、司馬倫らは張華を強く憎んだ。張華もまた司馬倫らが変事を起こすのを恐れ、武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。 元康9年(299年)12月、賈南風は皇太子司馬?を忌み嫌っており、罪をでっち上げて廃立して庶民に落とし、永康元年(300年)1月には許昌宮に幽閉した。これに憤った司馬?の元部下であった右衛督司馬雅
生涯
若き日
関中を乱す
太子殺害を教唆
しかし孫秀は裏で密かに「太子は聡明で剛猛な人物です。もし東宮に帰還できても、誰かの制御を受けたりはしないでしょう。明公(司馬倫)は元々賈后(賈南風)と結託していたのは誰もが知るところであり、今回太子のために大功を立てたとしても、太子は明公が周囲の圧力によりやむなく協力したぐらいにしか思わず、明公に対する怨みは無くなっても感謝することなどないでしょう。むしろ、今後もし過失があったらそれを口実に誅殺される恐れすらあります。ここはわざと決起を遅らせ、賈后が太子を害するのを待つべきです。その後、太子の仇をとるという大義名分で賈后を廃せば、禍を除いた上に更に大きな志を得ることも可能でしょう」と司馬倫に勧めると、司馬倫はこれに従った。 かくして孫秀は司馬雅らの謀反をわざと賈南風へ流し、さらに司馬倫は孫秀と共に賈謐らへ「急ぎ太子を除いて衆望を絶つべきかと」を進言した。賈謐がこれを賈南風に告げると、賈南風は黄門孫慮に命じて司馬?を殺害させた。司馬?の死を見届けると、司馬倫は孫秀と共に賈氏一派討伐を決行しようとしたが、司馬雅・許超は司馬?殺害の一件で怖気づいてしまい応じなかった。そのため、司馬倫は右衛?飛督閭和
賈氏一派粛清
4月3日、司馬倫は孫秀・閭和・司馬?・司馬冏と共に政変を決行し、皇帝の詔を偽造して近衛軍を掌握し宮中に侵入した。賈謐は異変に気付き逃げようとしたが、兵士に囲まれてその場で殺された。さらに賈南風を捕らえて庶民に落とし、建始殿に幽閉した。賈南風の取り巻きであった趙粲・賈午らも逮捕され、暴室で拷問を受けた。司馬倫は尚書に賈氏一派を尽く捕らえるよう命じたが、尚書らは皆司馬倫の持つ詔を疑い、尚書郎師景は恵帝の直筆による詔を示すよう求めたので、司馬倫等は見せしめとして師景を殺し、群臣に従うよう強要した。そして賈謐など賈一族を皆殺しにすると共に、孫秀と謀議して朝廷内で声望がある者や、かねてより怨みがある者を除くことに決め、張華・裴?・解系・解結ら多くの政治中枢の役人達を逮捕し、三族まで皆殺しにした。
4日、司馬倫は端門(宮門正南門)を制圧すると、尚書和郁に命じて賈南風を金?城に監禁させた。同時に側近の劉振・董猛・孫慮・程拠らが処刑され、張華・裴?の取り巻きとみなされた者多数が罷免された。9日、司馬倫は偽の詔を発し、尚書劉弘に金屑酒(金粉入りの毒酒)を金?城に届けさせ、賈南風にこの酒を飲ませて自害させた。こうして賈氏一族の時代は終わりを告げた。 司馬倫は詔と称して大赦を下すと、自ら符節を持って都督中外諸軍事・相国・侍中となり、権力を手中に収めた。司馬倫は人望を得るため全国の名士を登用し、かつての平陽郡太守李重
権力を掌握
5月、亡き皇太子司馬?の名誉が回復されると、その子である臨海王司馬臧が皇太孫に立てられた。司馬倫は太孫太傅を兼務し、皇太孫を補佐した。司馬倫はひとまずは人心の掌握と恵帝の補佐に務めていたが、次第に権力の独占を志向するようになった。しかし司馬倫自身は才能に乏しく知略が無かったので、実際には政治を担っていたのは中書令となった孫秀であった。そのため、衆望は次第に司馬倫ではなく孫秀の下に集まるようになり、司馬倫自身の求心力は全く無かった。 中護軍・淮南王司馬允(恵帝の弟)は司馬倫の専横に不満を抱き、賈謐に連座して失脚していた石崇(石苞の子)や潘岳らの勧めを受けて決起の準備に入った。これを知った司馬倫は強い警戒心を抱き、司馬允を太尉に昇格させて中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して太尉の任を辞退した。さらに孫秀が偽の詔で司馬允を弾劾すると、これに激怒した司馬允は淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿に向かい、その途上で「趙王が謀反を起こしたため討伐する。協力する者は左肩を出せ!」と呼び掛け、多数の援軍を得てその兵数は膨れ上がった。一行は東宮にある相国府に向かい、司馬倫は迎撃を命じたものの連敗を喫して1000人余りの死者を出した。 太子左率の陳徽
司馬允反乱
司馬倫は司馬允の子の秦王司馬郁と漢王司馬迪を殺害し、さらに連座により数千人を処刑した。また、かねてより司馬倫・孫秀と折り合いの悪かった潘岳・石崇・欧陽建も謀反に加担したとでっち上げられて一族皆殺しとなり、石崇の財産は没収された。さらに、司馬倫は司馬允の同母弟である呉王司馬晏を逮捕したが、光禄大夫傅祗らが処刑に反対したので、賓徒県王に左遷した。また、孫秀は司馬冏の存在を警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。 司馬倫は孫秀を通じて自身に九錫を下賜するよう恵帝に働きかけ、恵帝が詔を下すと一度わざと辞退し、百官が詔書を携えて受諾するよう請うた後にこれを受諾した。これが実現すると4人の息子達もそれぞれ昇進し、孫秀や張林ら側近達も重任を委ねられた。司馬倫は相国府の兵を2万人追加し、皇帝の近衛軍である宿衛と同等の規模とし、さらに3万を越える兵を無断で養成した。そして国政を掌握した司馬倫と孫秀は、永康2年(301年)1月、禅譲の下準備として牙門趙奉
帝位簒奪
そして司馬倫は、義陽王司馬威(司馬孚の曾孫)を宮殿に派遣し、恵帝に禅詔(帝位を譲る詔)を作成させた。尚書令満奮と僕射崔随は符節を持ち、印章と組綬を携えて司馬倫に送り届け、宗室諸王や郡公卿士らが「天文に符瑞(帝王が即位する兆し)がある」と称して受諾するよう勧めると、ついに司馬倫はこれを受け入れた。左衛将軍王輿・前軍将軍司馬雅らは甲士を率いて入殿し、三部司馬へ禅譲が執り行われる旨を告げて「支持する者には褒賞を与える。背く者には刑を施す」と宣言し、同日夜の間に恵帝に印章と組綬を渡すよう強要した。こうして翌日、司馬倫は内外の百官が迎える中で兵5000を従えて端門より入り、太極殿に昇って帝位に即いた。
司馬倫が即位すると大赦が下され、建始と改元された。恵帝は雲母車に乗って儀仗隊数百人と共に華林西門から出て金?城に送られ、護衛のためと称して張衡が金?城に派遣され、太上皇とされながらも実質的な監禁状態に置かれた。また、皇太孫司馬臧は濮陽王に降格となり、1週間後に殺害された。新たな皇太子には司馬倫の世子の司馬?が立てられ、同じく子の司馬馥を侍中・大司農・領護軍・京兆王に、司馬虔を侍中・大将軍領軍・広平王に、司馬?を侍中・撫軍将軍・覇城王に封じ、各々兵権を与えた。
司馬倫は群臣を懐柔しようとして官爵を濫発し、司馬?を宰相に、何劭を太宰に、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司に、司馬威を中書令に、張林を衛将軍に任じた。平南将軍孫?の子の孫弼と弟子の孫髦・孫輔・孫?は、孫秀に協力して司馬倫を補佐したので、司馬倫が即位すると4人とも将軍に任じられ、郡侯に封じられた。