司法卿
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この項目では、戦前の日本における司法省について説明しています。日本以外の国における司法省については「司法省 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

日本の行政機関司法省
役職
卿・大臣江藤新平(初代)
鈴木義男(最後)
概要
設置1871年(明治4年)7月9日[1]
廃止1948年(昭和23年)2月15日
後身法務庁最高裁判所事務総局
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司法省(法務省本館)

司法省(しほうしょう)は、1871年(明治4年)から1948年(昭和23年)まで設置されていた日本行政官庁。主に刑務所の管理や司法行政などを行っていた。目次

1 概要

2 歴代 司法卿・司法大臣

3 歴代司法次官

4 指定学校

5 脚注

6 関連項目

7 参考文献

概要

大日本帝国憲法においては、建前上は三権分立の原則が謳われていたが、実際には、行政機関である司法省が、裁判所規則の制定権、判事を含めた裁判所職員の人事権を行使するための司法行政弁護士および弁護士会の監督権などを掌握していた。このため、具体的に司法省の中枢部に所属していた検事たちが日本国内の全ての判事人事権を掌握する形となり、身分的には検事が判事の下位の位置付けにあっても、実際には行政司法に対して自由に干渉を行うことが可能となっており、実際にも司法大臣による訓示などの形で判事たちへの干渉が公然と行われるなど、三権分立は有名無実のものであった。しかし、大日本帝国憲法下における判事は終身官とされており、仮に人事の面で司法省から不当な扱いを受けることはあっても判事の身分自体は生涯保証されていたため、10年ごとに最高裁判所事務総局からの再任拒否による失官の危険にさらされる現在の日本国憲法下の裁判官よりも個々の判事の独立は保証されていたとする見方もある。

日本国憲法および裁判所法の施行により、司法省が有していた裁判所に対する司法行政権最高裁判所に移管された。司法省は日本国憲法施行後もしばらく存続していたが、法務庁の設置に伴い1948年2月に廃止された。しかし、最高裁の発足と同時に司法省の官僚たちの多くは最高裁判所事務総局へ移籍し[2]、今度は最高裁判所の内部から全ての裁判所と裁判官を支配・統制する形になった。

一方、司法省官僚たちの中でも最高裁判所事務総局へ移籍せずに残った組は、司法省の後継組織である法務庁(後に法務府をへて法務省となる)を設立し、こちらは日本国内の全ての検察庁検察官を統制し続けている。また、最高裁判所事務総局法務省は司法省の廃止後も判検交流と呼ばれる人事交流を行うなど、現在に至るまで互いに関係を維持し続けている[3]

なお、弁護士会は戦後、日本国憲法の下における新たな弁護士法の施行に基づいて日本弁護士連合会を設立し、司法省からの独立を果たすことができた。

諸外国にも、法務行政を行う行政組織が多数存在する。これの訳語には司法省を充てることが多いが、法務省とするばあいもある。日本の司法省および法務省の英名は、両者とも「Ministry of Justice」とされている。外国の場合、中国、台湾以外は漢字表記しているわけではなく日本語訳の問題であり、外国の司法省は法務省と同等であるという言い方は意味をなさない。これは大蔵省と財務省、防衛省と国防省の場合も同様である。
歴代 司法卿・司法大臣

初代司法卿は江藤新平1872年就任)。内閣制度の下における初代司法大臣は山田顕義1885年就任、日本大学及び國學院大学の学祖)。詳細は「法務大臣」を参照
歴代司法次官詳細は「事務次官等の一覧#法務事務次官」を参照
指定学校

1893年12月、司法省は判事検事登用試験規則(明治24年5月15日司法省令第16号)第5条第1号に基づき、判事検事登用試験受験資格[4]を、関西法律学校(現・関西大学)、日本法律学校(現・日本大学)、東京法学院(現・中央大学)、独逸学協会学校(廃止[5])、東京専門学校(現・早稲田大学)、明治法律学校(現・明治大学)、慶應義塾(現・慶應義塾大学)、専修学校(現・専修大学)、和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与えた[6](帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された)[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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