10代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、1853年10月19日(嘉永6年9月17日) - 1916年(大正5年)2月9日[1])は、日本の実業家。日本海上保険・朝鮮電気・大阪火災海上運送保険各社長[2]。族籍は福井県平民[2]。幼名は吉太郎[3]。 越前国南条郡河野浦(現・福井県南条郡南越前町河野)出身。右近廣隆の長男[2]。家業は回漕業[1]。父を助けて繁雑な業務を指揮するばかりでなく、自ら船に乗って航海の実地を研究し、又各地の荷主と自ら折衝して、専心家業の発展に努力した[3]。1882年、家督を相続した[2]。 父同様に積極的に北前船経営を行う。回漕業以外に貿易にも手を広げていき[3]、従来の弁財船に加えて大型蒸気船も数多く保有した。北陸親議会や日本海運業同盟会、日本海上保険会社などの設立に大きな役割を果たした。 幼少時から非常に剛毅で家人の手に余ることさえ度々だった[3]。有名な大酒のみだったが、信用徳望は絶大なものがあり、地方人はよく彼に推服していた[3]。 福井県南条郡河野村、大阪・西・西長堀北通[2]、兵庫県武庫郡住吉村[4]右近権左衛門家のルーツは、江戸時代前期まで溯ることができる。1680年(延宝8年)に河野浦の金相寺3代目住職漸祐が、4代目となる専祐の弟を寺の養女と縁組させ、田畑山林とともに船1隻を与えて分家させた[5]。その船出はささやかなものであった。 北前船主の館・右近家
目次
1 経歴
2 人物
3 家族・親族
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
経歴
人物
家族・親族
右近家
父・廣隆(福井県平民、素封家、回漕業)[2][3]
母・りん[2]
1826年 -
弟・巳之吉(分家)[2]
1869年 -
同妻・くに(福井、橋本與左衛門の長女)[2]
妻・はや(福井、右近平左衛門の長女)[2]
1857年 -
養子・和作[2](実業家、資産家)
1876年 -
男・福次郎[4](実業家、資産家)
1883年 -
同妻・とき(岐阜、小寺成蔵の二女)[2]
同長男・徳太郎[2]
男・十一代目権左衛門(旧名は義太郎[2]、実業家)
1889年 - 1966年
同妻・政子(石川、時国甫太郎の二女)[2]
女・スエ(大阪、植竹龍三郎の妻)[2]
1892年 -
孫[2]
親戚
植竹龍三郎(塩原電車、日光登山鉄道、中宮祠電力各社長)
時国甫太郎(石川県農工銀行取締役)
脚注^ a b ⇒右近 権左衛門とはコトバンク。2016年9月18日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q ⇒『人事興信録 第4版』う9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年9月18日閲覧。
^ a b c d e f ⇒『財界物故傑物伝 上巻』198-202頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年9月21日閲覧。
^ a b ⇒『人事興信録 第5版』う1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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