右大臣実朝
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右大臣実朝
作者
太宰治
日本
言語日本語
ジャンル歴史小説
発表形態書き下ろし
刊本情報
出版元錦城出版社
出版年月日1943年9月
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『右大臣実朝』(うだいじんさねとも)は、太宰治長編小説1943年に書き下ろしの単行本として刊行された[1]。著者初の歴史小説である。
概要

歌人としても名高い鎌倉幕府3代将軍源実朝の人生を、その家来(近習)が、実朝の死去から20年を経て語る形で描く[2]。近習は実朝を「神さまみたい」と「霊感」を持った絶対的な存在として語っている。しかしこの近習の語りは、一つの出来事に対し前後で矛盾するようなことを述べていたり、登場人物たちの意味がありそうな行動をわざわざ語った上で意味づけなかったりと、意図が不明で不審な点が多いことが指摘されている[3]

太宰は依頼を受けて執筆に着手し、『吾妻鏡』『金槐和歌集』『承久軍物語』『増鏡』といった歴史資料を利用した[2]。これらは本文中にも引用という形で使用されている。ただし、多くの引用がなされている『吾妻鏡』については出典そのままではなく、文章の改変を伴っていることが研究者から指摘されている[2]。太宰が本作を発表した時期には、斎藤茂吉の『源実朝』(1943年)や小林秀雄の「実朝」といった、実朝論が複数刊行された[4]

太宰は刊行前に雑誌『文學界』1943年4月号に発表した短編「鉄面皮」において本作の執筆に触れ、執筆中の一部を抜粋しながら、少年の頃から実朝について書くことを念願していたと記し、1936年の入院中の日記という体裁の「HUMAN LOST』に「実朝を忘れず」と書いたことを挙げている(『吾妻鏡』に改変を加えたことも記している)[5]。また、津島美知子は太宰が「右大臣実朝」を執筆していた時期を「実朝時代」と呼び、「右大臣実朝」の一節を朗読したことや、つったったまま実朝の和歌を口ずさんでいる太宰の姿は「無気味」であったと回想している[6]

作中では、独立したセンテンスで示される実朝の台詞に限って、カタカナで表記されている[4]細谷博は、実朝像が「台詞の断片をこのように異質なものとして投入することによって、その暗示的な悲劇性は雑多な人間の動きとは引き離され、異質で澄明なものとして高められている」と指摘した[4]。特に「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という箇所は、戦争中に本作を読んだ奥野健男が「魂にまるで予言のごとく刺った」と評した[7]。こうした実朝と周囲の人物との隔たりについては、『駆込み訴へ』(1940年)におけるイエス・キリストユダの関係との類似を複数の論者が言及している(ただし、『駆込み訴へ』のユダが本作の誰に当たるかについては、公暁とする見解(奥野健男)、語り手とする見解(細谷博)がある[7])。
あらすじ

語り手は、12歳の時に初めて将軍家(実朝)の近習となり、その直後に善信入道の邸宅が焼けて預けていた書籍が焼失しても、入道の泣く様子を自分と一緒に笑ったのを見て、一生離れがたいという尊崇の念を抱く。疱瘡にかかって顔にあばたが残っても「スグ馴レルモノデス」という将軍家を、こんな澄んだ心境には何年かかってもなれないと思う。

将軍家御台所の実家に勤める侍から土産として古今和歌集を贈られると将軍家は「末代マデノ重宝デス」と喜び、さらに万葉集新古今和歌集も嗜むとともに、京都の風情に憧れ、京都の土産話を「都はあかるくてよい」と喜んだ。平家物語の琵琶語りでは壇ノ浦の戦いの描写に「平家ハ、アカルイ。」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」といった感想を口にした。

和田左衛門尉上総国司を望んだ折に尼御台がそれを拒んだことや、相州が将軍家に「お歌も結構ですが」と言い弓の試合を勧めて開催したこと、相州と広元入道が「武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出来るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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