右大臣実朝
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "右大臣実朝" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年8月)

右大臣実朝
作者太宰治
日本
言語日本語
ジャンル歴史小説
発表形態書き下ろし
刊本情報
出版元錦城出版社
出版年月日1943年9月
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示

『右大臣実朝』(うだいじんさねとも)は、太宰治長編小説1943年に書き下ろしの単行本として刊行された[1]。著者初の歴史小説である。
概要

この節の加筆が望まれています。 (2021年8月)

歌人としても名高い鎌倉幕府3代将軍源実朝の人生を、その家来(近習)が、実朝の死去から20年を経て語る形で描く[2]。近習は実朝を「神さまみたい」と「霊感」を持った絶対的な存在として語っている。しかしこの近習の語りは、一つの出来事に対し前後で矛盾するようなことを述べていたり、登場人物たちの意味がありそうな行動をわざわざ語った上で意味づけなかったりと、意図が不明で不審な点が多いことが指摘されている[3]

太宰は依頼を受けて執筆に着手し、『吾妻鏡』『金槐和歌集』『承久軍物語』『増鏡』といった歴史資料を利用した[2]。これらは本文中にも引用という形で使用されている。ただし、多くの引用がなされている『吾妻鏡』については出典そのままではなく、文章の改変を伴っていることが研究者から指摘されている[2]

太宰は刊行前に雑誌『文學界』1943年4月号に発表した短編「鉄面皮」において本作の執筆に触れ、執筆中の一部を抜粋しながら、少年の頃から実朝について書くことを念願していたと記し、1936年の入院中の日記という体裁の「HUMAN LOST』に「実朝を忘れず」と書いたことを挙げている(『吾妻鏡』に改変を加えたことも記している)[4]。また、津島美知子は太宰が「右大臣実朝」を執筆していた時期を「実朝時代」と呼び、「右大臣実朝」の一節を朗読したことや、つったったまま実朝の和歌を口ずさんでいる太宰の姿は「無気味」であったと回想している[5]

作中では、独立したセンテンスで示される実朝の台詞に限って、カタカナで表記されている。
あらすじ

語り手は、12歳の時に初めて将軍家(実朝)の近習となり、その直後に善信入道の邸宅が焼けて預けていた書籍が焼失しても、入道の泣く様子を自分と一緒に笑ったのを見て、一生離れがたいという尊崇の念を抱く。疱瘡にかかって顔にあばたが残っても「スグ馴レルモノデス」という将軍家を、こんな澄んだ心境には何年かかってもなれないと思う。

将軍家御台所の実家に勤める侍から土産として古今和歌集を贈られると将軍家は「末代マデノ重宝デス」と喜び、さらに万葉集新古今和歌集も嗜むとともに、京都の風情に憧れ、京都の土産話を「都はあかるくてよい」と喜んだ。平家物語の琵琶語りでは壇ノ浦の戦いの描写に「平家ハ、アカルイ。」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」といった感想を口にした。

和田左衛門尉上総国司を望んだ折に尼御台がそれを拒んだことや、相州が将軍家に「お歌も結構ですが」と言い弓の試合を勧めて開催したこと、相州と広元入道が「武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出来るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。」と話していたことを、語り手は決して将軍家が彼らと争論したり諫言されたのではなく、和気藹々としたものだったと語る。そして将軍家はその頃から周囲の者の相談を待たずに政務では見事な決裁を見せたという。厩戸皇子の事跡に関心を抱き、予知夢すら見たという将軍家を語り手は、厩戸皇子におよばぬまでも私たちとはまるで根元から違うと感嘆する。

将軍家が二十歳となった年には、三浦平六兵衛尉や和田左衛門尉の関係する揉め事に私情を挟まぬ決裁を示し、豪雨が止むことを望む歌を詠んだことと合わせ「関東の大長者たる堂々の御貫禄」と語り手は話す。2代将軍源頼家の子息・善哉が仏門に入り公暁の名となって挨拶に来たときには将軍家は「学問ハオ好キデスカ」と尋ね、「無理カモ知レマセヌガ」「ソレダケガ生キル道デス」と話した。

同じ年の秋、鴨長明が鎌倉を訪れ、酒宴が開かれる。長明は無礼とも見える振る舞いをしたが、「名誉欲だけは捨てられない」と話してから将軍家の歌を褒めだし、ただ「恋の歌」などの「嘘」を詠まないようにと諭す。その後長明は故右大将の命日に読経、作歌して京都に帰り、数ヶ月後に『方丈記』を世に送ったので、語り手は将軍家との対面が『方丈記』の端緒になったのではという気がしてならないという。一方、将軍家は恋の歌をあまり作らなくなり、作歌に苦しむようなそぶりも増えたが、それでも将来大将軍になるような頼もしさを備えるようになっていた。

建暦2年、相模川の橋の修理を故右大将の落馬や発願人の重成が非業の最期を遂げたことを理由に中止しようという家臣に対して、橋がそれらの出来事の原因ではない、橋があれば庶民が喜ぶから進めよと命じた。この頃歌も上達して御台所とも仲睦まじく、御所の女房に懸想することなどなかったと語り手は話し、21歳、22歳の頃が「最もお得意の御時期」ではなかったかと思われてならないという。武芸に優れて歌が似合わないような家臣も歌を詠むほど歌会は盛んになり、将軍家は朝廷への崇敬の念はいよいよ篤くなった。正二位に叙せられたときに詠んだ「山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ」を含む歌は素直な忠義の赤心の現れであると語り手は述べ、また箱根に赴いたときの歌を、鎌倉と京都の間、あるいは御台所と別の女性の間で揺れているなどという向きがあるのは残念でならないともいう。

建暦3年、泉小次郎親平の討幕の謀が露見し、そこに和田左衛門尉の子息二人が加わっていた。将軍家は目をかけている和田左衛門尉からの嘆願を入れて二人を赦免した。ところがその直後に今度は甥にもその疑いが発覚したとき、将軍家は積極的に動かず、相州が赦さないという旨を左衛門尉に伝える。語り手は、相州を「正しい事をすればするほど、そこになんとも不快な悪臭が湧いて出る」と評し、和田左衛門尉の面目を顧みない相州のやり方を批判的に記す。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef