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丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。 歴史上の丞相の多くは、行政のトップであり、軍事の最高指揮官も兼ねることがある最高権力者ともいえる存在だった。 その権力が主君をしのぐことも珍しくなく、それを示す逸話として、劉備の遺言に関する那珂通世の指摘がある。劉備は、丞相である諸葛亮に「そなたの才能は魏の曹丕の10倍はある。必ずや国に安定をもたらしてくれる事であろう。我が子劉禅が皇帝としての素質を備えているようならば、補佐して欲しい。だが、もし我が子が補佐するに足りない暗愚であったならば、迷わずそなたが皇帝となり国を治めるのだ」と言い残した。清の康煕帝は資治通鑑のこの箇所を読み、「劉備は諸葛亮を水魚の交わりと自分で例えたりしており、諸葛亮が忠臣で真面目な人柄だったことは熟知していたはずだ。遺言で諸葛亮の裏切りを疑うようなことをなんで書いたのだろう?三国時代は騙し合いを好む時代だったからだろうか、酷い話だ!」と嘆いて自分の蔵書にコメントを残している[1]。この頃の丞相は董卓・曹操がそうであったように、ほぼ皇帝代行に近く、簒奪が可能な地位であった。そのため、諸葛亮が帝位に就く可能性は十分存在していた。那珂通世はこのことを指摘して、「中国中世の丞相のうち、帝位を狙わず忠義を尽くしたのは諸葛亮の他は東晋の王導・前秦の王猛ら数名だけである」と述べ、「諸葛亮などの僅かな例外を除くと、司馬昭・劉裕・蕭道成・侯景・楊堅・李淵等の丞相職にあった人物はすべて皇帝位乗っ取りを図った。丞相職は国家乗っ取りの階段である。姦雄が帝位簒奪を図る時にまず狙うのが丞相の位であった」とさえ極言している[2]。 秦の荘襄王の即位に多大な功績のあった呂不韋や、漢の高祖(劉邦)をその旗揚げ以来、ずっと補佐してきた蕭何と曹参のような、大功臣が丞相職につく場合には、それに敬意を表する意味で「相国」と呼ばれることがある。鎌田重雄 丞相が2名置かれることがあり、その場合それぞれ「右丞相」「左丞相」と呼ばれた。王朝によってその上下関係に違いがあり、秦漢では右が上、魏晋以降は左が上となった。なお、宦官がこの官職に就く場合は、中人(宦官)の丞相ということで「中丞相」と呼ばれた。 日本では、飛鳥時代の末期に中国の律令制度が伝えられ、徐々に国家機構が整備されていった。行政・立法・司法を統括する最高国家機関として太政官が設置され、その長官である左大臣・右大臣はそれぞれ唐名で「左丞相」・「右丞相」などと称することがあった。例えば右大臣菅原道真を「菅丞相」と呼ぶなどである。 丞相の起源は戦国時代であり、百官の長とされた。丞相の官名を初めて使ったのは秦の武王[3]であり、左右の丞相を置く事もあり、時に単独で相邦が立つこともあった。秦の統一後は左丞相と右丞相のみが置かれ、秦・漢の時代は右丞相の地位が左丞相より高く、魏・晋の時代になると両者の立場は逆転した。宦官が丞相を務める際は中丞相と呼ばれ、代表的な人物が趙高である。 前漢の丞相は御史大夫・太尉とあわせた三公の首位で、初期には権威と声望が高く、名実ともに官僚機構の頂点にあった。武帝が皇帝の専制を強めると、皇帝の側近くにある侍中や、皇帝の文書事務を扱う尚書が政務の中心となり、丞相の権威は低下した[4][5]。前漢の哀帝の元寿2年(紀元前1年)に丞相は大司徒と改称され、丞相の名称は廃止された。 前漢では各地に封建された諸侯王の宰相も丞相と呼ばれたが、景帝の中元5年(紀元前145年)に諸侯王の丞相は「相」と改称され、王朝の丞相と区別されるようになった(歴史用語としては諸侯相と呼んで区別される)。
権威
呼称
日本での異称
歴史が望まれています。
秦
漢
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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