史通
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『史通』(しつう、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Sh?t?ng)は、唐代劉知幾によって著された史評の書。全20巻。中国で出現した最初の歴史批判・史料批判の専門書であり、「正しい歴史書はいかにあるべきか」「歴史家はいかなる態度・方法で歴史書の執筆に臨むべきか」というテーマを追求した著作で、後世に大きな影響を与えた。
成立
前史

中国の歴史書は、司馬遷の『史記』以来盛んに書かれ、後漢から唐代にかけて非常に多くの歴史書が生まれた[1][2]。特に短命の王朝が続く激動の時代である魏晋南北朝時代においては、歴史書編纂の専門官である史官だけでなく、一般の人々までもが歴史叙述に携わり、晋代の歴史書だけで二十種類以上、南朝梁の歴史書だけで十種類前後が生まれた[2]。同時に、短い政権の記録や地方志(中国語版)、個人の伝記を記した別伝の類も大量に制作された[2]。また、唐代に入ると過去の歴史を清算しようとする気風が生まれ、李淵のもとで『五代史』や『晋書』が完成するなど、過去の歴史書の再編纂も盛んに行われていた[3]

こうした状況の中で、中国において「史学」という領域が徐々に自覚されるようになった。たとえば、唐代に編纂された『隋書経籍志では、書籍の分類法として「四部分類」が確立し、歴史書を分類する部門である「史部」が独立した[1]。書籍の分類はそれぞれのジャンルの自覚を反映しているといえ、ここに中国における「史学」分野の独立を見て取ることができる[1]。「:Category:中国の歴史書」および「目録学#魏晋南北朝」も参照

こうして数多くの史書の作成、それにともなう史学の自覚過程を経たのちに、中国において史書に対する総括や史学に対する方法論の精査といった営みが生まれはじめた[1]。『文心雕龍』の「史伝」篇がその一つであり、古来の史書について評論し、歴史を書くものの姿勢を論じている[4]。こうした営みの専著として、唐代の劉知幾の手によって『史通』が完成し、過去の史書の総括と史学の方法論の精査がなされ、中国において「史学」という分野が確立するに至った[1]
劉知幾の登場「劉知幾」も参照

劉知幾(字は子玄)は、龍朔元年(661年)に劉蔵器の第五子として生まれた。11歳の頃には『尚書』の学習が身に入らず、代わりに兄たちが習っていた『春秋左氏伝』にのめり込むなど早くから歴史書に興味を持ち、そのまま『史記』『漢書』『三国志』などの学習に進んだ[5]。20歳で科挙に合格すると、河南獲嘉県の主簿になり、そのまま18年間務めた[6]聖暦2年(699年)に右補闕・定王府倉曹に転任し『三教珠英(中国語版)』の編纂に参加した。

則天武后長安2年(702年)、劉知幾41歳の時に著作左郎に転任し、武三思のもとで徐堅・呉兢(中国語版)らとともに国史編纂に当たった[7]中宗神龍年間には、『重修則天実録』の編修に参加した[7]。そして神龍2年(706年)、東都の守司となり、閑職であることを利用して『史通』の執筆に当たった[7]。そのまま数年間執筆を続け、景龍4年(710年)に『史通』が完成したとされる[7]

その後も劉知幾は玄宗先天元年(711年)に柳沖(中国語版)とともに『氏族志』の改修に当たり、翌年の開元元年には『氏族系録』を完成させる[7]。さらに開元4年には呉兢とともに『則天実録』『中宗実録』『睿宗実録』を完成させるなど、歴史叙述に携わり続けた[7]
著述の目的

劉知幾は、幼いころからの学識に加えて、初唐の『五代史』や『晋書』の編纂作業場を実見した経験もあり、それらを再検証することで、歴史書を執筆する際の記事の採録法の問題点やさまざまな事実誤認を発見していた[注釈 1]。しかし、劉知幾が従事した史館の実情は、監修国史が矛盾する編集方針を求める上に、無知無能な同僚に囲まれ、劉知幾はさまざまな非難を浴びるなど散々な状況であった[9]

こうした状況に絶望した劉知幾は、景龍2年(708年)に辞表を提出した。この辞表は『史通』忤時篇に収録されており、そこで劉知幾は史官を務めながらも国史編纂を完成させられない理由として以下の五カ条(五不可論)を挙げている[10]。なお、この時も含めて劉知幾は何度も辞職しようとしたが、結局は許されなかった[11]
史局にあまりに編纂官が多く、各自が牽制し合って一言一言を記述するのにさえ決断がつかず、編纂作業が進捗しない。

史局に資料が集まらず、史官が自分で資料を集めなければならない上に、政府機関に制度の記録を訪ねても失われている。

史官たちが中央の権力者と深いつながりを持っていて、事実を直書しにくくなっている。

史局に高官の監督官が何人も置かれ、しかも彼らの間に統一見解がなく、執筆者は仕事にならない。

監督官がはっきりと基準を立てる、各執筆者の分担を定めるといった仕事をせず、責任を回避するばかりで先に進まない。

劉知幾は、こうした史局の状況下で、長安年間の国史編纂や神龍年間の『重修則天実録』編修の際に自分の意見が取り入れられなかったことを残念に思い、自分の主張を著述の形で後世に伝えようと考えた[12]。そこで劉知幾が、公務とは別に私撰として書いたのが『史通』で、その制作の根底には史官としての自分の意見が取り入れられない彼の鬱憤や挫折感があった[13]

劉知幾は『史通』において、歴史記述の方法(特に正史の記述法)に対する批判を通して、あるべき正史を作るための方法を確立しようと試みた[14]。それは後世の史官のために、国史・実録執筆の際に不可欠な方法論や心構えを提示するものであった[12]。こうした史学批評の専門著作は、中国のみならず、世界的に見ても『史通』が最古級の著作であるとされる[15]。「劉知幾#史才論」も参照
『史通』に影響を与えた書籍

劉知幾は、『史通』自叙篇で、自分の著作を劉安淮南子』・揚雄法言』・王充論衡』・応劭風俗通』・劉劭人物志』・陸景『典語』・劉?文心雕龍』といった古書になぞらえて論じ、自分の著書がこれらの書籍の精神を受け継ぎ、包括するものであると述べている[16]。劉知幾は、このうち特に揚雄に対して傾斜しており、揚雄と自身の境遇が似ていることや、『法言』が『史通』と同様に発表後に世間から非難を浴びたことなどを述べている[17]

また、福島 (2003)は、このうち特に『論衡』と『史通』の関係を研究し、両者が経書をも批判する批判精神、用語の使用法、歴史の考証法などにおいて共通性が見られることを指摘している[18]
構成.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。


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