史学史
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『時間・真理・歴史』
ゴヤ1800年ごろの作。右の老人が「時間」、左が「真理」、そして前面にいて筆写をしているのが「歴史」。「歴史」は足下にある書物を疑い深げに見ながら、別の書物に書き写している

史学史(しがくし)とは、歴史学研究史である。具体的には、歴史事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また、歴史観の変遷に関する歴史のことである。
必要性と前史
定義とその必要性

史学史は、狭義には近代に成立した歴史学の学説史のことを指すが、近代歴史学以前にも歴史記述を対象とし、歴史事実や歴史意識、歴史観などを記述する学問的営みが行われていた。また、それらを記述するに当たっては様々な方法論が用いられ、その方法論は近代歴史学の研究方法に大きく影響をおよぼしている。同時に、近代歴史学自体が近代以前の歴史記述を主要な研究対象としているため、事実把握において、それらの歴史記述の客観性を検討(史料批判)しなければならず、したがって、史料がどのような方法論にもとづいて記述されているかは主要な関心となる。ここに、広義の意味での史学史、すなわち、歴史記述や歴史意識、歴史観の変遷の歴史も歴史学の対象として成立する[注 1]
歴史意識と歴史記述

歴史学研究が成立するには、歴史観、あるいは歴史意識の成立とそれにもとづいた歴史記述の存在が前提とされる[注 2]。独特の時間意識としての歴史意識が存在していても、それが記述されない場合は記述としての歴史が存在しないことがある[注 3]。歴史意識とは時間が一定方向に流れていくという時間意識のことであるが、これはある一定の時点から現在までの直線として時間を把握する紀年法的発想を必要とする。したがって、時間を一定の暦という形で把握する暦思想の成立なくして歴史記述は成立しない。
同時代記述と歴史記述ハンムラビ(左側の人物)
バビロン第1王朝の代表的な君主。ハンムラビ法典を制定したことで有名。ハンムラビ王の在位43年のそれぞれの年がどのように記録されたかは研究により解明されている

このような暦思想の成立以前、すでに文字による同時代の出来事記述はされていた。文字は元来古代の行政・財政の記録を保存する必要性から発明されたと考えられている。このような行政文書においては、当然、「いつ」、「どこ」で「誰」と「誰」が「どのような」取引をおこなったかが主要な関心となるため、その「いつ」の部分を特に重要な出来事を目安にして記録されることが行われた。このように、出来事にもとづいてある一年をほかの年から区別する方法は古代メソポタミアのウル第3王朝時代にはすでに成立していたといわれる[注 4]

時代が進むと、王の在位年と主な業績を付記した王名表という文書が出現し、王名表は王朝を一つの歴史的連続性によって認識していることを示しており、歴史意識とその記述の原型を見ることができる。ただし、この王名表において個々の王は一人称で記述され、同時代向けのプロパガンダ的側面が看取される点で客観的な歴史記述とは異なるものであった。

一方で、支配者は主に軍事的成功など自らに関する特別な出来事があった場合は記念碑を作ってこれを顕彰した。これは出来事をただ記すのではなく、その偉大さ重要性などを具体的に叙述することで事実としての歴史を文章にして表現したものであった。このような碑文はあくまで同時代を対象としている点で歴史記述ではないが、その記載に対しての態度は歴史の記述方法に継承されるものであった。

やがて、古代オリエント末期の新バビロニア時代になると、歴代誌という形式の文書が出現する。これは新バビロニアの数代の王の治世を記述対象としているもので、文書内で王を三人称で呼んでいることから、客観的な事実を記載する意図を持ったと思われる。したがって、今日的な意味での歴史記述の成立はこの歴代誌に求めることができる。やがて、時代をさかのぼって新バビロニア以前の王朝を歴代誌と同じように記載する文書が出現し、現在ある王朝以前からの連続した世界を客観的に記述する意図を持つ歴史編纂の態度が現れた。このような歴史を編纂する営みのことを「修史」という。歴史記述としての歴史学はまず修史として成立した。
歴史的展開

近代歴史学との関連性から、ここでは主に西ヨーロッパの歴史記述と記述方法論を中心に概観する。西ヨーロッパ以外の地域でも独自の歴史記述がおこなわれていたが、それについての詳細は割愛し、地域ごとの歴史記述に関する記事・史学史記事に譲る。
古代ギリシャにおける歴史記述の始まりヘロドトス(左側)とトゥキュディデス(右側)

歴史記述としての歴史学の始まりは古代ギリシャであるというのが一般的である[注 5]。古代ギリシャの代表的な歴史家として挙げられるのはヘロドトストゥキュディデスである。彼らの著作は同時代的な出来事の原因と推移を示すために歴史記述をしている点が特徴としてあげられる[注 6]。また記載されている事実は両者が実際に見聞したものが大半で、記述に当たって自分の見聞以外の原史料を使用している痕跡があまりない[注 7]。(詳細は西洋古代の歴史記述を参照)
ヘロドトス

一般に、「歴史学の父」といわれるヘロドトスは紀元前5世紀のギリシャの人である。彼はアケメネス朝とギリシャのポリスの間で起こったペルシア戦争の原因と推移を詳述し、さらにはその勝敗の理由を両者の政治体制の相違に求めた。ヘロドトスの歴史記述の特徴は、客観的な事実性をあまり重視しておらず、自身の見聞にもとづいてさまざまな伝承伝説を多く著述していることが挙げられ、これが後述するトゥキュディデスの批判するところとなった[注 8]
トゥキュディデス

一方、ギリシャのポリス間同士でおこなわれたペロポネソス戦争を記述したトゥキュディデスは、ヘロドトスが伝承や伝説までも記述の対象としていたのを批判し、検証性を重視して歴史を記述した[注 9]。一方で、トゥキュディデスの歴史記述に登場する為政者の演説などは創作性が大きく、また、見聞に頼っているせいか、事実の記述においてやや偏りがみられる[注 10]
古代中国における歴史記述の始まり司馬遷

古代中国においては、歴史記述はその成立の当初から批判精神にもとづいて実践的に扱われていた[注 11]儒教の始祖である孔子の歴史書である『春秋』を重視したが、この『春秋』にはすでに漢代初期には独自の注解を加えた『左伝』、『公羊伝』、『穀梁伝』の三種が存在した[注 12]。古代中国では当初から文献考証を通じた歴史の解釈が盛んに行われ、高度に発達した歴史記述が行われた[注 13]。詳細は「中国の史学史」を参照
孔子と春秋学

孔子はその政治思想を述べるに当たって、実際、政治における実践性を特に重視し、また、その思想の、古の時代を賛美する復古主義的な性格から歴史事実を尊重していた。したがって、孔子の教えを継承した思想家たちは歴史記録を解釈することを主要な関心とするようになり、とくに、孔子が重んじた『春秋』を解釈する学問、「春秋学」が成立した。漢代儒教が国教化されると、春秋学も歴代王朝の公的な歴史記述である正史の編纂方法の重要な根拠となった[注 14]
司馬遷

司馬遷は『春秋』などの先行する史書、諸子百家と呼ばれた思想家たちの著作や自身の見聞をもとに、当時の中国世界の体系的な歴史書である『史記』を著した。『史記』は神話の時代から司馬遷自身の時代に至るまでの正統的な支配者を「本紀」として中心に著述し、中国国内の諸国史、中国国内の社会史、法制史、周辺異民族などの歴史を本紀の周りに配した構成となっており、中国の支配者を中心とした体系的な世界史になっている[注 15]。司馬遷以後中国の歴史書はこの連続性・体系性が重視されるようになり、歴代王朝で正史が編纂されるようになるが、それらはほぼ『史記』の体裁を継承するものであった[注 16]
西洋中世における歴史記述の推移アウグスティヌス
代表的な著作『神の国』では、二元的な世界観を示し、以後のキリスト教神学・政治思想・歴史観などに決定的な影響を与えた

キリスト教がヨーロッパで支配的となると、学問分野においてもキリスト教の世界観が支配的となった。ここにの意図を実現する過程として歴史を捉える見方が現れ、個別の国家・民族・個人を超えた歴史の根本法則を見出す観点、普遍史の観点が成立した[注 17]。しかしルネサンス期になると普遍史的観点は薄れ、同時代史を重視するようになった。(詳細は西洋中世の歴史記述、ルネサンスの歴史記述を参照)


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