台湾行啓
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撮影日不明、台南にて1923年大正12年)4月16日、台湾総督府に到着した裕仁親王を出迎える騎兵隊

台湾行啓(たいわんぎょうけい、中国語: 臺灣行?)とは、1923年大正12年)4月、日本統治下の台湾への摂政宮皇太子裕仁親王(当時。後の昭和天皇)による行啓(訪問)である[1]
背景
日本の外地統治「外地」、「台湾総督府」、および「日本統治時代の台湾」も参照

第一次世界大戦期(1914年?1918年)、米国大統領ウィルソン民族自決主義を提唱し、戦争の終結とともに多くの植民地は次々と独立を獲得した。民族自決・民主主義の流れは日本の統治地域にも及び[2]、植民地自治の要求である「台湾議会設置請願運動」が開始された。日本国内にあっては「大正デモクラシー」が進展し、さらには朝鮮三・一独立運動がこれまでの軍部主導の「特別統治」=「憲兵政治」の破綻を明らかにした。

このため朝鮮総督府・台湾総督府官制の改革がされ、総督の武官専任の制限が外された。首相の原敬は、日本本土(内地)と同様の制度を植民地である台湾に適用するという主張「内地延長主義」に基づく政策を展開させようとしていた。

まず1919年(大正8年)10月29日、最初の文官総督となる田健治郎が台湾総督に就任していた[3]。田総督も、「内台融合」や「一視同仁」などの方針を唱え、これに基づき、1920年(大正9年)地方制度の改革を実施し、州、市、街、庄の官選議会を創設した。翌1921年(大正10年)2月台湾総督府評議会(中国語版)を設置した。さらに1922年(大正11年)1月には、「三一法」(「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」明治40年第31号法律のこと。台湾総督に法律と同等の効力を有する律令の制定権限を与えていた「六三法」を引き継ぐもの)を「法三号」(「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」大正10年法第3号)に改め、原則的に日本の法律を台湾に適用するとした。

この他にも、台湾人官吏特別任用令を公布し、台湾人と日本人(内地人)の共学を許し(内台共学)、台湾人と日本人との結婚も認められた(内台共婚)[4]。原首相と田台湾総督は、自らによる「内地延長主義」により手直しされた台湾統治体制の諸改革を権威づける総仕上げとして、台湾行啓を実行した。
行啓実現まで

第8代台湾総督田健治郎(在任:1919年10月29日 - 1923年9月6日)によれば、大正天皇自身にも長らく台湾行幸の意思があったが、健康問題から行幸は叶わなかった[5]

1921年(大正10年)、皇太子裕仁親王の欧州訪問が実現した折、田総督は皇太子の側近に、欧州からの帰途に台湾に立ち寄るよう願い出た[6]。しかし、日程延長は畏れ多いと、実現に至らなかった[6]。翌1922年(大正11年)9月、田が東京から帰任する際、加藤友三郎首相に別れの挨拶をする席上、「摂政殿下行啓」の希望を首相に強く伝えた[6]。田は、行啓の目的は名誉の問題ではなく、「(註:島民に)摂政殿下の聖徳を啓発」し「(註:裕仁親王に)台湾統治の実際を知ろし召され」「(註:島民に)直接に玉顔を拝し、君恩の渥きを知らしめ、以て卒土の濱王臣あらざる無き」を期すためと、熱烈に要望した[6]

こうして、宮廷を動かし、同年11月に上京した田と関屋貞三郎宮内次官が内交渉を開始し、12月には牧野伸顕宮内大臣と日程を翌年4月上旬とすることで調整した[6]。牧野からは、裕仁親王の「御研究」[注釈 1]のため余裕ある日程を考慮するよう指導を受けた[6]。田は珍田捨巳東宮大夫や加藤首相らを訪問して援助を求め、さらに久邇宮[注釈 2]に参上し「御声援を懇請」して、帰台した[8]。また、定期船での帰途、同乗した陸軍参謀総長上原勇作元帥とも懇意となり、行啓の実施について意気投合し、斡旋や便宜の約束を得た[9]

台湾に戻った田は、賀来佐賀太郎総務長官の他、各部長・局長、州知事を総督官邸に呼び、翌年4月の行啓について訓示した[9]。また、警備に万全を期す必要性から、斎藤実朝鮮総督と交渉の上、朝鮮総督府逓信局長であった竹内友治郎を台湾警務局長に転任させた[7]
反対論

田は、明くる1923年(大正12年)1月、上京して宮中に参内、東宮御所に伺候した後、牧野宮相の元を訪問した[10]。田は牧野から、平田東助伯爵を通じて受領した杉山茂丸による反対意見を知った[10]。杉山の書簡には、「台湾の民心不安」にして行啓が危険であることや、台湾行啓の実施によって朝鮮行啓の懇請が予想されるが、朝鮮は宋秉o伯爵の声明によればより危険であることが記されていた[10]。田は牧野宮相に丁寧に反論し、また別に牧野の元を訪れた上原元帥も田に賛同した[11]。さらに平田伯や田中義一大将の元を訪問し、反対意見を釈明して了解を得た[12]。そして杉山の元を訪問し、反対論に対して反証し、杉山の誤解や杞憂を解いた[13]

この他、宋伯爵、珍田東宮大夫、久邇宮邸を訪問し、それぞれ治安や島民感情についての誤解を解き、後藤新平伯爵や伊東巳代治伯爵に行啓を内談した[14]。さらに牧野宮相の意を得て、2月18日元老松方正義公爵熱海に訪ねて説得した[15]
下検分と行啓延期

2月20日、松方公との会談結果を受け、田は具体的な行啓ルートを牧野宮相、珍田東宮大夫、入江為守東宮侍従長、関屋宮内次官らと検討に入った[16]。高雄からの復路について、田は陸路(鉄道)を希望したが、医師らの意見を入れ、裕仁親王への負担軽減から海路とした[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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