台湾海峡危機
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台湾海峡、向かい合う台湾と中国本土

台湾海峡危機(たいわんかいきょうきき)は、1950年代から1990年代にかけて中華人民共和国中国大陸)と中華民国台湾)の間での軍事的緊張が高まった事件の総称。4度にわたり緊張が高まったが、アメリカの介入などにより全面戦争に発展することはなかった。
原因

第一次、第二次台湾海峡危機のいずれも、中国側の動機は、アメリカとの軍事緊張を作ることで、ソ連に原爆製造技術の供与を要請するためだったという説がある[1]。詳細は「中国の核実験」を参照
第一次台湾海峡危機(1954年 - 1955年)詳細は「第一次台湾海峡危機」を参照「一江山島戦役」および「大陳島撤退作戦」も参照一江山島を占領する人民解放軍

国共内戦の結果、1949年中国国民党率いる中華民国政府は中国大陸での統治権を喪失し、台湾に移転したが、中国西南部の山岳地帯及び東南沿岸部の島嶼一帯では中国共産党に対する軍事作戦を継続していた。しかし1950年になると、舟山群島海南島が中国共産党の人民解放軍に奪取され、また西南部でも人民解放軍がミャンマー国境地帯に進攻したため、国民党は台湾及び福建省浙江省沿岸の一部島嶼(金門島、大陳島、一江山島)のみを維持するに留まり、東シナ海沿岸での海上ゲリラ戦術で共産党に対抗していた。

朝鮮戦争の影響で沿岸部における侵攻作戦が休止しはじめ、中国の視線が徐々に朝鮮半島へ移転するのを機に国民党は反撃を幾度か試みたものの(南日島戦役東山島戦役)戦果が期待したものとはほど遠く大陸反攻への足がかりを築くことができなかった。そして、朝鮮戦争が収束するにつれ共産党の視線は再び沿岸部へ向きはじめるようになる。

この間人民解放軍はソ連から魚雷艇やジェット戦闘機を入手して現代的な軍としての体制を整えつつあった。

1954年5月、中国人民解放軍は海軍や空軍の支援の下大陳島及び一江山島周辺の島々を占領し、10月までに砲兵陣地と魚雷艇基地を設置した。9月3日から金門島の守備に当たっていた中華民国国軍に対し砲撃を行った(93砲戦)。11月14日に一江山島沖で人民解放軍の魚雷艇が国民党軍海軍の護衛駆逐艦『太平』(旧アメリカ海軍デッカー (護衛駆逐艦))を撃沈すると周辺の制海権を掌握した。1955年1月18日には解放軍華東軍区部隊が軍区参謀長張愛萍の指揮の下、一江山島を攻撃、陸海空の共同作戦により午後5時30分に一江山島は解放軍により占拠され、中華民国陸軍の指揮官である王生明は手榴弾により自決している。

一江山島を失った台湾側は付近の大陳島の防衛は困難と判断、2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍中華民国海軍の共同作戦により大陳島撤退作戦が実施され、浙江省の拠点を放棄したことで事態は収束を迎えた。
第二次台湾海峡危機(1958年)詳細は「金門砲戦」を参照

1958年8月23日中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始、44日間に50万発もの砲撃を加え、金門防衛部副司令官である吉星文、趙家驤、章傑などがこの砲撃で戦死している。この砲撃に対し台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、また中国をナチスになぞらえた。9月22日にはアメリカが提供した8インチ砲により中国側への砲撃を開始、また金門への補給作戦を実施し、中国による金門の海上封鎖は失敗、台湾は金門地区の防衛に成功している。9月29日、?介石は金門島の危機に際してはアメリカの支援なくとも中国と戦闘態勢に入ることを述べた。

10月中旬、ダレス国務長官は台湾を訪れ、台湾に対してアメと鞭の態度で臨むことを伝えた。つまり?介石が金門・馬祖島まで撤収することを条件に、援助をすると伝えた。?介石は10月21日からの三日間の会談でアメリカの提案を受け入れるが、大陸反撃を放棄しない旨もアメリカへ伝えた。

10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言し、アメリカとの全面戦争を避けた。

1959年(昭和34年)9月、健康上の理由で首相を辞職した石橋湛山は回復後、私人として中華人民共和国を訪問し、9月17日周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した(石橋・周共同声明)。のちの日中共同声明に繋がったともいわれるこの声明および石橋の個人的ともいえる外交活動が、当面の危機を回避することに貢献した。
国光計画(1962年)詳細は「国光計画」を参照

1962年大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、?介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した[2][3]


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