台湾映画
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民生劇院

台湾映画(たいわんえいが)は、主に台湾の資本と人材によって製作された映画のこと。

中国語の映画は、それぞれ独自に発展した中国映画香港映画、台湾映画に分類することができる。台湾映画は、香港映画の流れや中華人民共和国政府による検閲とは一線を画し、独特で急速に変化する台湾の歴史の中で発展した。台湾映画の傾向として、アート映画ミニシアターが多くある。
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1900年、高松豊次郎により映画が台湾に紹介されて以来、日本統治時代には数多くの映画が台湾で制作された。1937年に日中戦争が勃発すると、映画産業は活動を妨げられ、1945年まで実質的に作品を供給することができなかった。

国共内戦の終結に伴い中国国民党を支持する中国大陸の映画製作者が台湾へと渡ってきたことで、1949年以降台湾映画は再び発展し始める。この時期に製作された映画は政府によって公認された「国語」(北京官話)によるものだった。政府は、国語を推進することで国家の統一を図ろうとし、方言は制限されたため、台湾語などによる映画は徐々に減少していった。

1960年代は、台湾は近代化の入り口にいた。政府は、経済・産業・教育の発展に重点を置き、1963年には中央電影公司(CMPC, Central Motion Picture Corporation)がメロドラマ“健康写実主義(Health Realism)”を売り出した。この映画ジャンルは、社会経済構造が急速に変化する中で重要だと考えられていた、伝統的な道徳観を養うものとしてとらえられていた。この時期には、伝統的なカンフー映画も恋愛メロドラマと同程度の人気を博していた。瓊瑤はこの時期の映画の基となった恋愛小説の著者として特に有名である。

1975、76年には日本の東映と手を組んで日台合作映画シリーズ『閃電騎士』が公開された。内容はそれぞれ、日本の『仮面ライダー対ショッカー』、『仮面ライダー対じごく大使』、『仮面ライダーV3対デストロン怪人』、『五人ライダー対キングダーク』の台湾リメイク映画である。

この時代の台湾映画は中華民国による検閲、プロパガンダと密接に関係している。
1982年以降

1980年代初期、台湾におけるホームビデオの普及は、映画(フィルム)鑑賞という行動を一般化させた。しかし、台湾の映画産業界は高い娯楽性を有することで知られていた香港映画などの流入という深刻な問題に直面していた。香港映画に対抗するため、CMPCは若い監督の育成に乗り出す。楊徳昌エドワード・ヤン)、陶徳辰、柯一正、張毅の4人の若く優秀な監督による1982年の映画『光陰的故事』は、台湾映画の若返り、ニューウェーブの始まりとして知られている。詳細は「台湾ニューシネマ」を参照

それまでの十数年来のメロドラマやカンフー映画とは対照的に、ニューウェーブ映画は台湾人を写実的で現実的、共感的な描写を特徴とする。これらの映画は、台湾の都市部あるいは地方に住む人の真実の物語を描き出そうとし、しばしばイタリアの新写実主義運動の映画と比較される。ニューウェーブ映画におけるリアリズムの追求は、革新的なストーリー構成によってさらに強化された。


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