台湾の鉄道
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台湾の交通関連項目

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関係法令:
郵政法・中華郵政条例
公路法
鉄路法・大衆捷運法
航業法
海商法・船舶法
商港法・漁港法
民用航空法

関連項目:
台湾糖業鉄道
国光汽車客運
台湾鉄路貨運
台湾バス事業者一覧
台湾のIC乗車カード・電子マネー一覧

その他台湾関係記事

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台湾の鉄道(たいわんのてつどう)は、台湾で運行されている鉄道の概要を記す。

日本統治時代の台湾において台湾総督府が経営していた鉄道は「台湾総督府鉄道」を参照。
概要台鉄南迴線を走る昔ながらの普快車
金崙駅、2013年12月)

中華民国政府の台湾への移転後に実効支配している領土のうち、鉄道路線は台湾本島内にのみ存在している。経営主体別に以下のように分類できる。

国営路線:中華民国行政院の各局

公社路線:各公社

民営路線:民間企業

軽便鉄道製糖製塩林業会社などが運営している。軌間標準軌の半分という意味で「五分車」と地元で呼ばれる。

普通鉄道としては、台湾鉄路管理局(台鉄)、台湾高速鉄道(高鉄)、阿里山森林鉄路などがあり、これらの駅は中華民国国語で「車站'(注音:??? ???、?音:Ch?zhan、注音?音:Ch?jhan)」「火車站」、台湾語では「車頭(Chhia-thau,チャータウ)」(ただし車内放送では台湾語読みで「車站(Chhia-Tsam,チャーツァン)」と発音している)と表記される。「wiktionary:車頭」も参照

一方、20世紀末に台北から広まった各都市の捷運駅は「站(?音:Zhan、注音?音:Jhan)」と表記されるのが一般的[注釈 1]
歴史
清朝統治時代清朝統治時代の数少ない鉄道遺構である獅球嶺隧道(基隆市内)詳細は「w:zh:臺灣鐵路 (清朝)」を参照「全台鉄路商務総局鉄道」も参照

台湾の歴史上で最初に鉄道の施設を決めたのは、清朝統治時代末期台湾巡撫として台湾に赴任していた劉銘伝である。軌間は1067mm狭軌)を採用し、1887年光緒13年)に基隆から台北を経て新竹に至る区間の工事が始まった。路線は先ず1888年7月に初代台北駅大稲?、現台北市大同区) - 錫口(現台北市松山区)間が先行開通し、清初の鉄道トンネルとなる獅球嶺隧道の完工(1890年8月)を経て、1891年(光緒17年)10月に台北駅 - 基隆駅間の28.6kmが開通した。当初、1日1往復の運行(旧正月運休)で、所要時間は1時間強であったと言う。その後、路線は1893年10月(光緒19年)に新竹駅まで延長され、総延長は約100kmとなった。

清朝当局は線路の終着点を台南にまで延ばす構想を持っており、新竹駅から崎頂付近まで線路の基盤工事を行っていた。だが、日清戦争以降の混乱で建設は頓挫した。日清戦争で勝利した大日本帝国が台湾を領有し、台湾総督府が設置されるまで本格的な鉄道建設は行なわれなかった。
日本統治時代日本統治時代の面影を残す台鉄平渓線菁桐駅糖業鉄道烏樹林駅詳細は「台湾総督府鉄道」を参照

日本は台湾経営のためには鉄道整備が欠かせないと考え、1895年明治28年)6月10日に「台湾鉄道線区司令部」を、8月25日には「臨時台湾鉄道隊」を設置して既存の鉄道の管理・輸送を担当させた。台湾総督府が設置されて台湾統治の基礎が固まると、1899年(明治32年)には「総督府鉄道部官制」が公布されて鉄道が総督府鉄道部の管轄となり、それまで軍用中心であった鉄道を次第に民間輸送へも開放するようになり、本数も日4往復へ増発された。そして総督府は続いて台湾縦貫鉄道の建設に取り掛かり、既存の施設を抜本的に改修したうえで、1908年(明治41年)4月に縦貫線の基隆 - 高雄間404.2kmを全通させるに至った。他にも、軽便鉄道規格の台東線(東花蓮港 - 台東)や、阿里山森林鉄路なども敷設し、台湾の近代化を進めるに大きな役割を果たしたという。長谷川謹介は「台湾鉄道の父」と呼ばれた。

その日本統治時代の鉄道最盛期といえる1940年昭和15年)10月には、縦貫線に食堂車を連結した急行列車が2往復、台東線にも1往復の急行列車が走っていた。

なお、軽便鉄道規格の製糖鉄道や森林鉄道も旅客営業を実施し、最初の営業が新営庄(現在の新営駅)?塩水港(現在の塩水駅)間で始まったのを皮切りに、台湾西部を中心に路線網を築いていった。
中華民国時代台鉄が初めてアメリカ合衆国から導入したディーゼル機関車のR20型(中国語版)イギリスの技術で電化された線路を走る南アフリカ集中動力車)・韓国客車)製のE1000型電車大湖駅にて。


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