台湾の経済史
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台湾の歴史

台湾史年表
先史時代
オランダ統治時代
(1624-1662)
鄭氏政権 (1662-1683)
清朝統治時代 (1683-1895)
台湾民主国 (1895)
日本統治時代 (1895-1945)
中華民国統治時代 (1945-現在)
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台湾の経済史(たいわんのけいざいし)では、台湾の現在までの経済の発展について概説する。

台湾の経済は大航海時代より飛躍的な発展を遂げる。17世紀、台湾の地政学アジアでの重要な位置を占めた台湾はヨーロッパ諸国の貿易拠点となり、また中国日本東南アジアを結ぶ中継貿易基地としての地位を確立した。1630年から1945年にかけてそれぞれ時代背景や市場規模は異なるもの、台湾は貿易活動及び農業活動を中心とした経済活動を行っていた。

1950年代になると国共内戦に敗れた中華民国政府により農業経済以外に、工業経済確立のための政策が採用され、1960年代には中小企業を中心に工業生産額が増加、軽工業中心の経済に転換した。1966年から1980年にかけては加工貿易区、十大建設、十二大建設などを通して経済発展の基礎を築き、1980年代後半になると外国資本を積極的に誘致したダイナミックな資本主義経済を導入、台湾経済における政府の役割を縮小し、公営銀行・企業を民営化していった。

現在は電子産業を中心とした科学技術方面での工業を中心とした経済を確立している。
先史時代

根據考古学の発掘調査により台湾では旧石器時代後期(50,000年から10,000年前)に人類の居住があったことが確認されている。現在確認できる台湾最初の文化として八仙洞遺跡に代表される遺跡が東海岸を中心に発掘され長浜文化と称されている。また台南市左鎮区では原人の骨格が発見され左鎮人と称されている。また新石器時代になると台北盆地では円山文化、芝山巌文化などの遺跡も発見されている。

先史時代の台湾での経済活動は発掘遺物からの推測となるが漁猟や農耕を主とした経済活動を行っていたと推測される。植物園文化晩期(2,000年前)には台湾でも金属器が使用されるようになり、十三行文化などが確認されている。十三行文化は約2,300年前に始まり、漢人が台北地区に進出するまで続いた。この時代の経済活動は前時代に比べ活発となり、鉄器の使用が始まり農耕技術を向上させたことにその特徴がある。また紡績技術も発達し簡易な道具を用いた衣服の製作を行っていた。

十三行文化の特徴が後に漢人が記録した平埔族その他の台湾原住民の生活特徴と類似しており、多くの考古学及び民俗学学者によってそれは平埔族などの源流であると考えられている。左鎮人の想像図
オランダ東インド会社による経済活動

17世紀初頭、オランダ東インド会社は台湾での経済活動を行っていたが、その対象地域は澎湖諸島に限定されていた。当時明朝は澎湖は明の版図であると認識していたため、オランダに対し澎湖からの退去を要求、1624年に当時明の統治が及んでいなかった台湾大員(現在の台南市)へと拠点を移し、1662年までの間経済活動を行っていた。

オランダが台湾を占拠した目的は日本李氏朝鮮と東南アジアの拠点の中継基地としての役割と、当時スペインが拠点としていたマニラと明との貿易ルートを遮断する目的があった。当時の主要な輸出品は砂糖、鹿皮、鹿肉、鹿角、籐、米であり、そのほか中継貿易品としてオランダ本国からの金属や薬品、バタビア産の香料、琥珀、麻布、アヘン、明の絹や陶器、金などが取り扱われていた。オランダ東インド会社の船舶

鹿皮を例にあげれば、1634年から1638年の僅か4年間で、台湾から武具製作で大量の需要のあった日本に輸出された鹿皮は11万から15万枚を記録し、1658年になると砂糖も日本やペルシャの需要を満たすだけの生産量を確保し、バタビア向けの輸出も開始された。オランダ東インド会社はアジア地区に35ヶ所の拠点を設けたが、売り上げの第1位の日本(38.8%)についで台湾は第2位(25.6%)の地位を締めるに至った。しかしこれらの貿易による利益は株主に還元され、台湾社会の建築に還元されることはなかった。

当時の台湾で貿易を経営していた国はオランダ以外に日本もある。日本人との経済競争が発生するとオランダは日本商人に10%の税を課税し日本側の不満を惹起、浜田弥兵衛事件という衝突事件が発生し、1628年から1632年まで両国間の貿易が停止した。しかし日本は間もなく鎖国政策を実施し、貿易を巡る両国の対立は自然消滅した。
鄭氏政権の農業政策

鄭氏政権の存続期間は短期であったが、台湾の経済史の中では大きな発展がみられた時代である。特に注目されるのが貿易及び農業の振興政策であり、兵糧問題を解決するため、各将士に一定の都李を割りあて開墾を推進した。これら営盤田、文武官田と称される土地私有制を通した賦税制度の確立は経済資本を増大させることとなった。またその政権中期には陳永華による政権整備が進み、全島に統治権を行使した以外に階層分化も進み、台湾は歴然とした独立国家となり、独自の経済体として発展していった。

この時期の農業は食糧確保が優先され製糖作物から稲作に転換され、この農業経済の方向転換が現在の台湾にも影響を与えている。1665年、陳永華の農業灌漑事業は漢人の高雄地区への入植を促し発展していくこととなった。また製塩業の発展にも尽力し、前時代からの鹿皮などの商品を獲得するための狩猟活動も当時の台湾における重要な経済活動であった。

貿易方面ではイギリスや日本などが鄭氏政権が確立した台湾との貿易を行っている。イギリス東インド会社は鄭氏政権を「台湾王国」あるいは「フォルモサ王」として通商条約を締結するなど活発な活動がみられた。史実の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かった。だが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖、「ピルグリム・ファーザー」)として社会的に極めて高い地位を占めている。
清朝統治時代

清朝による台湾統治の初期は台湾に対しての積極的な政策は採用されず、個人的な移民による開墾と水利事業が主体となった。

水利事業は農業の根幹であり経済発展の原動力である。1719年から施世榜は濁水渓を利用した水利工事を行うと、「?(用水路の意味)」が台湾経済発展の重要な地域を占めるに至った。18世紀初頭、台湾の耕地が水田となると、農業経済と農業生産力は飛躍的な発展を遂げることとなり、1725年には台湾より大陸に米が輸送されるという台湾経済市場注目すべき成果を挙げている。

また清代になっても貿易とそれに付随する商業活動が活発に行われていた。一府二鹿三??と称される三大都市が台湾の物流の中心となり、また「郊」と称される組織を利用して特定地区の貿易も盛んに行われた。

1858年、英両国が市場を求め清朝に開港を要求、その結果台湾の安平、打狗基隆淡水が開港されることとなり、台湾からは商品価値の高い茶葉及び樟脳が輸出され、台湾経済発展の資本形成に寄与している。
日本統治時代日本統治時代の糖業鐵道。
台湾の資本主義化の基礎工事

日本による台湾統治の開始により台湾経済の資本主義化が始まった。それは、まず度量衡の統一と中央銀行の設立、さらに貨幣制度の統一から始められた。いわゆる「資本主義化の基礎工事」である。

度量衡の統一 社会経済の資本主義化する前提は生産物の商品化にある。そのためには個々の商品の価格が統一的に決まることが必要となる。


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