台湾の日本酒
[Wikipedia|▼Menu]

台湾の日本酒(たいわんのにほんしゅ)では、台湾における日本酒について述べる。
近年の生産と消費日本から各国への日本酒輸出量推移日本から各国への日本酒輸出金額推移

台湾では、2008年の時点で台湾煙酒公司によって年間14,000(2,520kL)の日本酒が製造されている[1]。その他、霧蜂郷農舎など100石(18kL)程度の小規模な生産を手掛ける一般企業や農業組合の運営する酒蔵も存在し、日本の酒造メーカーの指導を受けながら日本酒を生産している[1][2]。近年は純米吟醸酒など高級な商品も製造されている[3]。2008年の台湾の日本酒生産量は、日本国外では大韓民国アメリカ合衆国中華人民共和国に次ぐ世界4位に相当する[4]。日本に少量が輸出された年もあるが、ほぼ全量が台湾国内で消費されている[1]

台湾が輸入する日本酒の99%は日本からのもので、2017年の時点で年間1,985kL、金額ベースで9億4,800万円が輸入されている[5]。日本にとって日本酒の輸出相手先としては台湾は金額ベースで第5位にあたり[6]、台湾向けの農林水産物および食品の輸出品目の中でアルコール飲料は金額ベースで第2位となっている[7]。なお、韓国やアメリカからの輸入はわずかであり、台湾煙酒公司製の廉価な日本酒が普及していることが影響していると見られる[5]

台湾のナショナルブランドの日本酒は、スーパーマーケットコンビニエンスストアで600mlで150台湾元ほどで販売されている[2]。小売店においては日本酒販売は置き売りが主流であり、高級品の回転率は低い[2]。日本から輸入した日本酒は40%の関税もあって日本国内の2 - 3倍の価格で販売され、日本料理店に卸されるほか百貨店や酒専門店でも販売されている[3]。2012年にJETROが行った調査によれば、日本酒購入時に台湾人が重視する項目は「味」が21%でトップとなる一方、「価格」は13%で他国に比べて高い割合となっている[3]。また、日本料理店の顧客であっても35%が日本酒を飲まず、21%は「日本酒に興味がない」と回答している[3]
法令および税制上の扱い

台湾では、タバコ酒類管理法第31条によって対面で年齢を確認して酒を販売する事が義務付けられているため、日本酒も自動販売機通信販売などによる販売は禁止されている[8]。台湾の税体系では日本酒は一般的に「その他の醸造酒類」に分類され、1Lあたりアルコール度数×7台湾元のタバコ酒類税がかけられる[9]。なお、合成清酒は「再製酒」に分類され、アルコール度数20%以下では1Lあたり7台湾元、20%超では1Lあたり185台湾元のタバコ酒類税がかけられる[9]

台湾国外からの輸入に対しては、醸造酒としてCIF価格に対して40%の関税がかけられる[9]
歴史
19世紀末から1910年代まで

1895年日本による統治が始まると、台湾には多くの日本人が移住し日本酒に対する需要が生まれた[10]。台湾には伝統的蒸留酒が存在していたが、亜熱帯の気候は日本酒造りに適さず、1901年には当時居住していた42,000人の日本人に向けて日本から16,493石(2,969kL)の日本酒が移入されている[10]。この頃から、台湾各地で日本人が清酒の製造を試みるようになり、1907年には8名の日本人業者が個人の酒造免許を保有していた[11]。その多くは本格的な醸造ではなく再製清酒であり、1910年頃の台湾中部では再蒸留して臭気を除いた糖蜜酒を使用していた[10]

当時は容量1石2 - 3(216 - 234L)のを使い、冬季の12 - 3月に仕込みが行われた[12]。酒母造りで生?は困難なため、水?と呼ばれる菩提?が多くの場合採用されていた[12]。段掛けは多くの場合2段掛けであり、留添えから早ければ6 - 7日で発酵を終了させていた[12]もろみを圧搾してからはすぐに火入れを行って出荷するなど、暑い気候に対応した製法が取られていた[12]

1914年には、台湾総督府技師の藤本鐵治と東京税務監督局技手の森康宏らが独立し、日本芳醸社を設立した[12]。同社は冷却器を備えた鉄筋コンクリート造りの建物で、先進的な技術を取り入れた酒造を行った[13]。?米には肥前産の粳米、麹米には台湾中部産米を用い、?は山廃?や速醸?を採用している[13]。「胡蝶蘭」、「高砂」などの清酒を造り、マニラシンガポールにも試験出荷したが腐敗しなかったという[14]。1917年には台北庁管内で生産された日本酒6,785石(122kL)のうち4,093石(737kL)を占めるなど好調だったが、工場内の微生物汚染が原因で1920年頃には清酒製造からアルコール精製に業務を転換している[14]

このほか、1916年には大正製酒が設立され、1922年の時点で台中および嘉義の工場で合計2,053石(370kL)の再製清酒を製造していた[15]。1912年に本島人によって設立された埔里社酒造は、酒造に適した埔里街の気候を活かして年間894石(161kL)の米酒とともに同125石(23kL)の再製清酒を製造していた[15]。これらの活動によって、1900年代に2,500 - 3,800石(450 - 684kL)だった日本酒生産量は、1914年には5,000石(1,800kL)、1918年には10,290石(1,852kL)となっている[15][11]
専売局時代


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef