台湾の政治史
[Wikipedia|▼Menu]

台湾の歴史

台湾史年表
先史時代
オランダ統治時代
(1624-1662)
鄭氏政権 (1662-1683)
清朝統治時代 (1683-1895)
台湾民主国 (1895)
日本統治時代 (1895-1945)
中華民国統治時代 (1945-現在)
政治史
経済史
建築史
十大土木史蹟 - 百大建設
文化史
社会史
教育史
メディア史
軍事史
交通史
中台関係

台北の歴史
高雄の歴史

台湾古跡一覧
遺跡

参考
中国の歴史
中華民国の歴史

その他台湾に関する記事
文化 - 経済 - 地理
政治 - 教育 - 軍事
人口 - 言語 - 交通
テンプレートを表示

台湾の政治史(たいわんのせいじし)では、台湾における政治史を概説する。

有史以来の台湾の政治史は、1624年オランダによる台湾占拠より始まり、鄭氏政権清朝統治時代日本統治時代を経て中華民国統治時代(現代)に至っている。ここで述べる政治史では、実証されていない平埔族の統治による政治形態については除外している。
政府沿革

史料によって確認できる最初の台湾での政府機構は、元王朝王朝が澎湖諸島に設置した地方官庁の澎湖寨巡検司であるが、この時期は澎湖地区のみを管轄するに過ぎなかった。17世紀中期のオランダ統治時代になると台湾の統治機構は台湾北部のスペイン政庁と南部のオランダ政庁が存在した。

1662年から1683年にかけては、王朝の崩壊と、その後に成立した王朝に対抗する鄭成功が、台湾に亡命政権を一時期樹立した。その後、清王朝による統治を受けることになった台湾であるが、清王朝での台湾は福建省が管轄する台湾道として扱われ台湾府が設置され、1885年台湾省が設置されると台湾行省が設置されていた。

1895年、下関条約により大日本帝国に割譲された台湾は、台湾総督府による統治を受けることとなった。1945年の大日本帝国の敗戦と崩壊により、代わって中華民国の統治を受けることとなった。当初は台湾省行政長官公署が設置されたが、中華民国政府は南京にあり、国共内戦が激しくなると台湾省政府が設置された。1949年に国共内戦に敗れた中華民国政府が台湾に遷都すると、中華民国政府が台湾を代表する政府機構となり、現在に至っている。
台湾の統治者
オランダ統治時代(1624年 - 1662年)「オランダ統治時代」も参照『熱蘭遮城及び長官官邸鳥瞰図』約翰・芬伯翁/1635年頃/73 x 103 cm/荷蘭 海牙國家?案館藏
台湾長官

台湾長官(Governor,大員長官、フォルモサ長官とも表記)はオランダ統治時代に、東インド会社により任命された台湾の行政長官。全島の行政を担当し、1624年から1662年まで12人が着任している。

インドネシアバタビアを本拠地とする東インド会社は1622年に澎湖を占拠した後、馬公を東南アジア貿易の拠点とすべく計画した。1623年、オランダ人は一鯤身に簡易な砦城を建設し、更に大規模な「奧倫治城」(Orange)を建築した。1627年に熱蘭省(沢蘭省とも)と省名が決定した際に砦城も熱蘭遮城(Zeelandia)と改称、台湾長官の駐在地として台湾行政の中心となった。

台湾長官

国初代長官末代長官歴代数期間政府所在地
オランダマルチネス・ソンクフリードリック・コイェット121624年?1661年台灣台南(熱蘭遮城)

その後ハーマン・クランクが任命されるが未着任
鶏籠淡水長官

鶏籠淡水長官オランダ統治時代スペインが台湾北部に設置した官職名。初代長官は1626年に台北を占拠したアントニオ・バルデス。

台湾遠征軍指揮官のバルデスを含め、1626年から1642年にかけて8名の鶏籠淡水長官が就任している。1630年以降は鶏籠長官と淡水長官に分けられ、鶏籠(現在の基隆市)と淡水の両地に駐留した。南部はオランダの勢力下であったため、スペイン人の勢力範囲は基隆・淡水の地域に限定されていた。

1630年以降籠と淡水長官に分けられ、行政の中心は基隆和平島と大台北地区の淡水鎮に分けられた。和平島には行政の中心となる聖薩爾瓦多城が設置され、淡水には現在も観光地として有名な紅毛城が建設された。

鶏籠淡水長官

国初代長官末代長官歴代数期間政府所在地
スペインジュアン・デ・アルカルゾゴンザロポルティリオ71626年?1642年台湾基隆和平島(聖薩爾瓦多城)
スペインルイス・デ・グズマンフランシスコ・ヘレナンデス??台湾淡水(紅毛城)

鄭氏政権(1662年 - 1683年)「鄭氏政権」も参照
延平郡王安平古堡の鄭成功像

延平郡王とは明朝永暦帝1653年鄭成功へ下賜した封号であり、台湾では一般的に鄭成功を指す。但し鄭氏政権の鄭経鄭克?もまた延平郡王を自称している。1661年より鄭成功は台湾の他に福建の一部も含まれていた。1664年に鄭経が福建の大部分を失地すると、鄭氏政権は台湾地区の統治者としての地位を確立した。なお、歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖、「ピルグリム・ファーザー」)として社会的に極めて高い地位を占めている。

延平郡王

国初代王末代王歴代数期間政府所在地
鄭氏政権鄭成功鄭克?31661年?1683年台湾台南

承天府府尹

承天府府尹は鄭氏政権が1661年に設置した台湾地区の統治機関の長官の名称である。この時期鄭氏政権は福建にも支配地を有しており、台湾地区の行政は承天府により処理されていた。

承天府府尹

国初代府尹末代府尹歴代数期間政府所在地
鄭氏政権楊朝棟翁天祐41661年?1664年台湾台南

東寧総制

東寧総制とは鄭氏政権初期に台湾を管轄した官職である。1674年に正式に設置され、陳永華が任命された。設置目的としては鄭経が中国に西征する期間中の台湾の留守を守った。しかし1680年に鄭経が福建の根拠地を失い台湾に戻ると東寧総制は廃止となり、同年5月に陳永華が病を理由に辞職し7月に病没すると、後継人事が行われず官職も消滅した。

東寧総制

国初代末代歴代数期間政府所在地
鄭氏政権陳永華陳永華11674年?1680年台湾台南

清朝統治時代(1683年 - 1895年)「清朝統治時代」も参照1874年,在台南二鯤?に建築された「億載金城」。清朝が外圧を受け台湾統治政策を見直した際の建造物である
台湾道

台湾道は、清朝が設置した特殊行政区画及び官職である。職権は巡撫知府の中間であり、同様な官職としては上海道金陵道の道員があった。清朝統治時代での台湾道は福建省の管轄下に置かれ、道員の地位は福建巡撫の下、泉州知府或いは?州知府の上位に設定されていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef