台所
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「キッチン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「キッチン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
設備の整った現代の家庭用台所の例

台所(だいどころ、: Kitchen)とは、屋内において調理を行うために設けられた施設および空間である。流し台給水設備排水設備)、加熱調理器(コンロ)、換気設備換気扇)、作業台、収納庫と作業空間から構成される。
概要

台所はキッチン、厨房(ちゅうぼう)、調理場(ちょうりば)、勝手場(かってば)、(お)勝手(かって)などともいわれる。台所やキッチン、勝手場という呼び方は、主に一般住宅の調理設備を指し、厨房や調理場という呼び方は、飲食店給食センターなどの大規模な業務用の調理設備を指すことが多い。

日本語の「台所」の語源は、平安時代貴族たちが食生活を行っていた部屋の総称である台盤所(配膳用の皿を載せる台が置かれた場所)に由来し、中世以降「台所」と呼ばれるようになった[1]。また、英語のキッチンの語源は、古来語のcycene(クチーナ)、ラテン語のco-quina(火を使うところ)に由来する[1]

レストランなどの営業目的である業務用の台所(厨房、調理場)は、作業人数に合わせた適切な広さや設備の設定が必要である。設計には給水設備、排水設備、ガス設備、電気設備などが関係し、幅広い専門知識が求められる(厨房設備施工技能士)。衛生上では、保健所からの指導で、二槽式のシンクや手洗い器、消毒薬の設置を指導されたり、定期的な検査が必要とされたりする。

なお、調理場は地上の建物内に限らず、外洋に出る大型船舶内にも古くから備えられている。一例として、長崎県鷹島沖の鷹島神崎遺跡から発見された元寇時(13世紀末)の軍船の周囲からは南宋製のレンガと共にブタの骨が見つかっており、考古学者は船内で火を用いた調理が行なわれていたと考えている[2]。長期間上陸しないことを想定し、船内調理場を備えることは現代でも豪華客船に見られる。

気温が低く、凍結によって給排水がままならない地域、食物の腐敗や細菌の影響が切実ではない北の地域では、洗うという概念が南の地域とは異なる[3]。食器や食材を洗う作業が重要視されないためにシンクや流しは小型な傾向があり、流しを使わない文化圏もある。水の消費は南の地域より少なく、動物性脂質をお湯で洗うため食器洗浄機が普及している。一方、高気温な南の地域では、衛生面の配慮以上に、粘土性の泥が野菜に付いているために調理前に洗う作業が不可欠となる。また、残渣の腐敗が早いことから、使用後の食器や調理器具を洗わずにはいられない[3]。大量の水を使用する南の地域の台所には水の確保や処理に関する道具や、家屋を湿気から守る工夫が多く見られる。
歴史

食物を調理するためには、洗う、切る、煮炊きするなどの動作が必要である。日本列島の場合、竪穴建物平地建物では、縄文時代から古墳時代前半までは建物中央付近にて直火()による加熱調理が行われていた。その後、古墳時代後半にカマド(竈)が導入され、建物の端部(壁際)に調理空間が移動することになったが(後述)、そのうちに独立した部屋が作られたのが、台所のはじまりとされる。
西洋での歴史フランクフルト・キッチン

加熱調理器の発展は定住型の民族の中で行われた。燃料となるは都市部でしばしば高価なものであり、熱利用の効率性が求められた。カマドは熱を効率的に使用することができた。しかし持ち運びは不可能で、遊牧民族の間では普及しなかった。また、火力調整が難しく、囲炉裏などのように、直火による調理方法も一方で行われた。カマド囲炉裏は要求される機能が異なるため、両方が存在することもあり、製造する手間や空間の無駄を省くため、時代や場所によっては、片方のみが存在している場合もある。

台所空間で洗う作業を行うためには排水設備が必要で、都市レベルでの優れた土木技術が必要であった。したがって、古くから水道を取り入れられる国、地域は限られていた。古代ローマローマ水道では、使用料を払えば誰でも台所へ水道を引き込むことができた。このようなケースは稀で、多くの場合、洗う作業は井戸周りや川で行われた。室内の台所空間では簡素な流しが使われた。どちらにせよ、台所空間は衛生を保つため、その床を耐水性に優れたものにする必要があった。土間の空間はその要求に応えることができた。

近代に入り、下水設備が整うと、台所空間に水道が持ち込まれた。流し台はコンクリート人造石研ぎ出し、トタン、ステンレスにハンダ溶接と進化したが、常に湿気をもった流し台は不衛生になりやすかった。

ドイツでは19世紀末から20世紀初頭にかけてキッチンメーカーが多く創業し、20世紀になるとバウハウス運動や世界初のビルトインキッチンの開発などでキッチンのデザインに大きな影響を与え、その後もドイツのキッチンメーカーはヨーロッパ全域で圧倒的シェアを有している[4]。1920年代にドイツの集合住宅用として設計されたフランクフルト・キッチンは利用効率・省スペース・コストを考慮しながら統一性のあるデザインにより広く普及し、後のシステムキッチンの先駆け的存在となった。また家事の合理化による女性の負担軽減というフェミニズム運動にも影響を与えている。
日本列島での歴史伝統的な日本家屋の台所。江戸時代後期、比較的大規模な民家の例。中央が土間、左側にカマド(竈)が並んでいる。

日本列島の旧石器時代における加熱調理は、礫群と呼ばれる施設で行っていたと考えられており、事例として北海道千歳市の柏台T遺跡の跡や、神奈川県綾瀬市の吉岡遺跡群の礫群遺構などで動物の焼けた骨や歯が検出されている[5]。これらの礫群は、多くは屋外施設であり[注釈 1]、室内調理空間としての「台所」ではない。

縄文時代では、建物(竪穴建物・平地建物)内外のや、集石と呼ばれる施設[注釈 2]を用いた加熱調理が行われた[6][7]竪穴建物などの建物中央に据えられた屋内による調理は、弥生時代および古墳時代前期(4世紀)まで引き続き行われた[8]

古墳時代中期(5世紀)に、渡来人によって日本列島にカマド(竈)がもたらされると、竪穴建物の内部には、北側または東側の壁際に「造り付けカマド」が設けられるようになった[9]。カマドによる調理は、それまでのを用いた調理より熱効率がよく、当時の調理様式に「台所革命」とも評される劇的な変化を与えたと考えられており、以後、日本列島の広範囲に爆発的に普及していった[10][11]

江戸時代には、井戸端や川辺で食材や食器などの洗浄を行い、それを住居内の木製の流しに持ち帰って台所仕事が行われていた[1]

明治時代になっても庶民の住宅の台所はカマド(竈、へっつい)を中心とする床上空間と蹲踞(つくばい)式流しを中心とする土間空間に分かれていた[1]。ガスも普及しておらず、カマドと七輪が熱源となっていた[1]。水道の普及により土間の置き流しに直接水が注げるようになったが、火や水を使うためには、しゃがみこむ必要があった[1]


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