台北清真寺
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台北清真寺
臺北清真寺
台北清真寺
基本情報
所在地 中華民国台湾台北市大安区新生南路二段62号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度1分40.56秒 東経121度32分3.19秒 / 北緯25.0279333度 東経121.5342194度 / 25.0279333; 121.5342194座標: 北緯25度1分40.56秒 東経121度32分3.19秒 / 北緯25.0279333度 東経121.5342194度 / 25.0279333; 121.5342194
宗教イスラム教
ウェブサイトwww.taipeimosque.org.tw/
建設
建築家楊卓成
形式モスク
様式イスラム建築
着工1958年
完成1960年
建築物
ドーム数3
ドーム高(外側)15m
ミナレット数2
ミナレット高20m
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清真寺
中華民国 文化資産

種類寺廟
等級直轄市定古跡
文化資産登録
公告時期1999年6月29日
位置 中華民国台湾台北市大安区新生南路二段62号
詳細登録資料

台北清真寺(タイペイせいしんじ; : 臺北清真寺; .mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Taib?i Q?ngzh?nsi)は、中華民国台湾)の首都である台北市大安区にある台湾最大のモスク。1960年に完成したモスクには台湾最大のイスラーム組織である中国回教協会が本部を置いている。土地の所有権をめぐる騒動で一時は取り壊しの危機に陥ったものの1999年には台北市から市定古跡として登録され、今に至るまで台湾のムスリムにとって重要な台北市のランドマークとなっている。
歴史
建設の背景

日中戦争後に再び勃発した国共内戦に敗れた中華民国の国民党政府は1949年に台湾へ移った。このとき国民党政府と共に台湾へ渡ったのが、日中戦争中に回民で結成された白崇禧を理事長とする中国回教協会の構成員を中心とした約2万人のムスリムであった[1]

台湾に渡ったムスリムたちは日本統治時代に建設された台北市の麗水街のおよそ300坪の中古の日本家屋を改装して清真寺としていたが[注釈 1]、台湾に来るムスリムが増えるにしたがって手狭になっていった[2]。1957年、中東諸国の歴訪から帰国した当時の外交部長である葉公超はイスラーム諸国との外交関係を維持するためには清真寺の建設が急務であるとの認識から、新たな清真寺の建設を提案した[3]。1949年12月12日には600人収容可能の清真寺を建設することを目的とした「臺北清真寺興建委員會」(台北清真寺建設委員会)が発足した[2]
清真寺の建設

1958年4月、中国回教協会は張子良という人物から台北市大安区新生南路の3,300m2の土地を購入した。同年11月に清真寺の建設が開始され[4]、2年後の1960年4月13日に当時としては極東最大のモスクである台北清真寺が完成した[2][4]。清真寺の落成式は当時の副総統である陳誠が執り行い[5]、式典にはブルネイ、フィリピン、日本、マレーシア、タイ、香港、オーストラリアなどの代表が出席し[2]、そのなかでブルネイのスルタンがクルアーン第1章の朗読を行った[6]。清真寺には中国回教協会の本部が置かれた[7]。清真寺の建設費のうち、イランとヨルダンから合計およそ150,000ドルが寄付され、台湾銀行から100,000ドルの融資が行われた[8][9][注釈 2]。他にもサウジアラビアや[5]、台湾のムスリムの故郷である寧夏回族自治区からも寄付があった[8]。しかしこのとき清真寺は張子良と土地使用証明書の交換をしたが[11]、そののち張子良は海外に移住し、15年以内にしなければならない土地の名義変更手続きをしなかったため台北清真寺の土地の登記簿上の所有者は張子良であった[4]

1971年にはサウジアラビアのファイサル2世が台湾を訪れた折に台北清真寺を訪問した[12]。ファイサル2世はもともと10分間の滞在の予定だったが1時間滞在した[6]
清真寺立ち退きの危機

台北清真寺の完成からおよそ30年が経った1987年、台湾に帰国した台北清真寺の土地のもとの所有者である張子良が土地の返還を求めて台北地方裁判所に民事訴訟を起こした。裁判では三審とも台北清真寺側が勝訴したが[13]、張子良は1993年の死去まで名義上の土地の所有者であり続け、死後は彼の12人の息子たちが主管官庁に土地の継承を申請したのち所有権を相続し、その土地の権利をセメント会社であ嘉新水泥公司(中国語版)(嘉新セメント社)に売却した[14]。嘉新水泥公司は1997年に名義変更手続きを受けて登記簿上の土地の所有権となり、台北清真寺に立ち退きを要求した[4]。これをうけて台北清真寺は取り壊しを避けるため文化資産保存法に基づく市定古跡への登録を目指した[15]。1998年7月、台北市民政局は清真寺を訪問調査したが「年代が古跡としての基準に達していない」として保留とした[4]。1999年3月18日にはムスリムであり国会議員である劉文雄(英語版)の働きかけで「清真寺的未来」(清真寺の未来)と冠された公聴会が国会議事堂で開かれ、その公聴会で配布された資料において台北清真寺は「台湾で唯一のアラビア式のモスクであり、イスラームの芸術的特色を備えていて、台北市という都市の国際的で多元的な文化の象徴を示している」とされた[16]。1999年3月29日、台北市は清真寺や文化界などからの求めに応じて再度調査を行い、前年の決定を覆して台北清真寺を市定古跡として認定し[4]、同年6月29日に正式に登録された[17]。この認定について、古跡認定の責任者である台北市民政局の林政修局長はメディアに対して、台北清真寺の古跡認定は、清真寺自体の年代や芸術的価値ではなく、マイノリティの文化を尊重するという社会的意義があったことを強調した[15]。また、この騒動において台湾メディアのほとんどは台湾の外交戦略上の位置づけやマイノリティ保護の観点から清真寺の取り壊しを中止するべきであるという立場だった[18]
現在まで

2020年、中華郵政は、台湾の文化的多様性に着目したものとして台北清真寺と台中市にある台中清真寺の切手を販売した[19]
活動台北清真寺が発行しているハラール認証マーク
礼拝

礼拝はイマームがアラビア語でクルアーンの朗読を行ったのち中国語でそれを解説する[10]。金曜礼拝は13時から15時の間に行われる[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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