台北水道水源地
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本統治時代の台湾 > 台北市 > 台北市区計画 > 台北水道台湾の古蹟 > 直轄市定古蹟 > 台北市 > 中正区 > 台北水道水源地新店渓 > 公館浄水場

台北水道水源地
中華民国 文化資産
元ポンプ室全景

登録名称臺北水道水源地
旧称台北水道
その他の呼称公館浄水場、自来水園区、自来水博物館
種類その他施設(その他-水源地)[1]
等級市定古蹟
文化資産登録
公告時期(ポンプ室)1993年6月
(全体)2002年2月5日[1]
位置 中華民国台湾
台北市中正区水源里思源街1号[1]
建設年代 明治40年(1907年
開放年代明治41年(1908年

公館浄水場
(旧台北水道)
Taipei water treatment plant
量水室
所在地 台湾
管理運営(1908-)台北水道事務所
(戦後-)市政府建設局自来水課、
(1961-)台北自来水廠、
(1977-)台北自来水事業処(台北市政府直属)
通水1908年
処理方式(1908-)緩速濾過
(戦後)急速濾過
通常処理水量42万トン/日(日本統治時代は1.74万トン/日)
工事費総額1,849万988円781銭(建設当時の金額)
給水区域台北州台北市(その後台北市)
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自来水博物館
Museum of Drinking Water
自來水博物館
入口

施設情報
専門分野上水道
事業主体台北市政府文化局
管理運営台北自来水事業処(中国語版)
延床面積25,740
開館(初期)1993年9月27日
(正式)2000年4月30日
閉館(暫定)1998年-2000年4月29日
所在地台北市中正区水源里思源街1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度0分45.0秒 東経121度31分48.0秒 / 北緯25.012500度 東経121.530000度 / 25.012500; 121.530000
アクセス台北捷運松山新店線公館駅
外部リンクhttps://waterpark.water.gov.taipei/
プロジェクト:GLAM
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台北水道水源地(たいほくすいどうすいげんち)は台湾台北市中正区にある日本統治時代に供用された取水場(水源地)と浄水場。現在は市政府直営の公館浄水場(こうかんじょうすいじょう)として運営されている。場内は博物館(自来水博物館)およびウォーターパーク(自来水園区)が併設され、台北市の市定古蹟にもなっている。戦前の水道町、現在の水源里(中国語版)や水源路(中国語版)の地名の由来でもある。
沿革

1885年清朝の初代台湾巡撫劉銘伝が台北北門街(現在の衡陽路)、石坊街(現在の博愛路(中国語版))、西門街に井戸を開削、濾過消毒後に飲料水として市民に提供した。これが台北における公共水利インフラの始祖とされる[2]

1895年明治28年)、日本政府の台湾統治における戦死者は154人だったのに対し、疫病による死者は4,000人以上に達し、日本へ送り返され治療を受けた者は27,000人にのぼった[3]

当時の明治政府で内務省衛生局長だった後藤新平は台湾全土の衛生顧問による衛生環境の調査と、上下水道整備を台湾開発の最優先事項とすることを要求した[2]1896年8月、台湾総督府はお雇い技師だったスコットランド出身のウィリアム・K・バートンとその弟子の浜野弥四郎を台湾の衛生事業と台北の上水道建設調査のために派遣した。淡水区で総督府として初の上水道計画が策定された[4]

事業進行中にバートンは風土病に罹患したため静養中の東京で病死したが、遺志を継いだ浜野が計画案を仕上げて総督府に建議1903年、公館(中国語版)観音山(現・虎空山、または小観音山)山麓の新店渓に取水口を設け、浄水場での処理後に加圧ポンプで観音山山上の貯水池まで揚水し、自然落下方式で市内に給水する案が採用された[5](pp82-83)。

12万人分、62.5万立方尺(約17,400立方メートル)の給水能力で計画され1907年(明治40年)4月に着工[6](p102)。1908年10月に取水口とポンプ室が竣工し、給水を開始[6](p99)、1909年(明治42年)6月に給水管、浄水場、貯水池などの全施設が竣工し、一般家庭への給水も開始している[6](p102)。総事業費は当時の金額で1,849万988円781銭だった[6](p103)。「台北水源地緩速濾過場(繁体字中国語: 臺北水源地慢濾場)」と命名され、台北の水道水近代化インフラとなった[2]

1914年大正3年)には給水区域の人口が13.3万人に達し、内地から来た日本人の消費量が特に多かったため拡張工事が実施されている[6](p103)。

台湾の水道事業は1896年にバートンと浜野による調査が開始されてから1937年時点で淡水、基隆、台北、士林北投新竹彰化嘉義大甲斗六台南高雄の主要都市111ヶ所で整備されるに至った[7]
戦後

第二次世界大戦後は市政府建設局自来水課の管理下となった[8]

1951年初頭、台北市政府が「台北市自来水水源拡建工程推行委員会」を設立、主任委員を当時の市長呉三連が務めた4月、拡建工務所を設立し、設計技師に台湾省政府建設庁(中国語版)から范純一を招聘し、事業を推進した[2]。翌年2月末に事業は完工。凝集沈殿池1ヶ所、沈殿池2ヶ所、急速濾過槽4ヶ所を備え、1日あたり2万トンの給水量だった[2]

1961年より台北市自来水廠の管理下となる[8]1974年、第3期拡張事業により緩速濾過場は撤去され、傾斜管を備え、凝固剤による凝集沈殿法を採用した沈殿池が増設され、急速濾過槽もガーネットによる濾過処理に改められた。能力も日量5万トンに増強されている。1977年に台北自来水事業処管理下となり[8]、ポンプ室が退役[2]

1992年、視察に訪れた第8代総統李登輝がポンプ室の保全を指示[9](p37)、1993年6月、内政部がポンプ室を3級古蹟に登録、同年9月27日以降、火曜日のみ一般見学が可能となった[2]


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