台北機廠
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}中華民国文化部 > 台北機廠鉄道博物館園区中華民国国定古蹟 > 台北市 > 信義区 > 台北機廠台湾の鉄道 > 台湾鉄路管理局 > 機務処 > 台北機廠

台北機廠
員工澡堂(職員大浴場)
基本情報
台湾
所在地台北市信義区市民大道五段48号
鉄道事業者台湾鉄路管理局
帰属組織機務処
併設区所北区供応廠
最寄駅南京三民駅市政府駅国父紀念館駅
(いずれも台北捷運の駅)
旧称総督府交通局鉄道部台北鉄道工場
開設1935年10月24日
廃止2012年1月30日
備考.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度02分48.5秒 東経121度33分47.5秒 / 北緯25.046806度 東経121.563194度 / 25.046806; 121.563194
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Clip 1945年の米軍地図。右上部が台北機廠、右下は聯勤44兵工廠と三張犁支線

台北機廠
各種表記
繁体字:臺北機廠
?音:Taib?i J?ch?ng
通用?音:Taib?i Jich?ng
注音符号:??? ??? ?? ???
発音:タイペイ ヂーチャン
台湾語白話字:Tai-pak Ki-chhiu?
英文:Taipei Railway Workshop
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台北機廠
中華民国 文化資産
台北101からの機廠全景
登録名称臺北機廠
旧称台北鉄道工場(日治時代
種類産業施設
等級国定古跡(全体)、
市定古跡(澡堂(大浴場):2000年9月22日
組立工場、鍛冶工場、原動室:2013年1月23日)、
市定歴史建築(客車工場、総弁公室、柴電工場。2013年1月18日
文化資産登録
公告時期2015年4月16日
建設年代昭和10年(1935年10月24日
開放年代2017年7月より限定公開

台北機廠(たいほくきしょう、英語: Taipei Railway Workshop、略称:北廠)は台湾台北市信義区にある、かつて台湾鉄路管理局(台鉄)機務処に属していた車両工場桃園市郊外に新設された富岡車両基地2013年より稼働したことに伴いその機能を段階的に移転し、2015年中華民国文化部により国定古蹟の指定を受けた。本工場を「台北機廠松山旧廠」、桃園市のほうを「台北機廠富岡新廠」という場合もある。「台北機廠」の名称は、桃園移転後も9年あまりの間は引き続き台鉄機務処に属する組織名として使われていたが、2022年6月28日付で富岡機廠へ改称されたため、施設名だけでなく組織名としても正式に消滅した[1]
沿革

台北機廠は台北市信義区新仁里付近、松山区との境界にあり、北側は市民大道と京華城に面している。南側は東西快速公路の高架と松山煙草工場に面している。

初代の台北工場は初代の台北工場は清朝時代に開通した全台鉄路商務総局鉄道の機器局(現大同区塔城街付近、北門駅北側)を旧日本軍が接収し「台北兵器修理所」、その後「台北砲兵工廠」として鉄道橋梁を含めて軍事目的の工場として使っていたものが1900年明治33年)末に総督府鉄道部へ移管され「台北鉄道工場」となったが、1908年縦貫線全通などで輸送力が増大し、車両の製造や修理業務も拡大の一途を辿った[2]

そして手狭となった初代工場の拡張移転先として「鉄道部新台北工場」(あるいは「鉄道部松山工廠」とも言われていた)を現在地(当時は台北州七星郡松山庄、のちに松山区)にて1930年昭和5年)に着工、1935年昭和10年)10月24日[3] に供用を開始、1939年(昭和14年)に完成した。大倉土木が各棟の建設を、木造の職員独身寮(知東宿舎)は池田組が請け負った[4]

戦時中は旧日本軍の拠点とされ、全てが軍需優先となった。総督府鉄道も例外ではなかったため、財政も物資も不足し、その機能を殆ど果たせなかった。1944年10月12日米軍による空襲により3名が死傷している[4][5]。戦後は国民政府が接収し現在の名称に改称している。

本機廠では台鉄電気機関車(電力機車)、電車(電聯車)、ディーゼル機関車(柴聯機車)、客車のメンテナンスが主要業務であり、時おり平快車から冷気平快車(中国語版)への改造やDC自強号、太魯閣号内装改装工事も行っていた。本機廠で生産されたステンレス車掌車タイ王国への輸出実績もある。1997年にはCK101[6]2001年には廃車のCK124号蒸気機関車を復元し、6月9日の鉄路節(台湾における鉄道の日)で公開した[7]

1975年、省立台北工業職業学校(現在の国立台北科技大学)と共同で2年制の養成プログラムを設立[4]。1976年、国立成功大学と共同で交通管理系(交通管理学部)に2年制の養成プログラムを設立[4]、成功大学工学院と共同で運輸管理系(運輸管理学部)に鉄道学科を設立。1980年、逢甲大学と共同で交通管理系鉄道学科を設立。

竣工時の台北機廠(1935年)

1930年代の台北機廠

松山移転後に交通局長宿舎として使われていた初代鉄道工場(大同区鄭州路)

踏切事故で著しく破損し、台北機廠で保管されていた太魯閣号先頭車(TED1010

施設

落成時の原型をほぼ留めており、全体設計は台湾総督府の宇敷赳夫[8][9]モダニズムの影響がみられる職員用大浴場などの内装・機材設計は同じく総督府の速水和彦が担当した[10]、直径5メートル、深さ1.25メートルの大型浴槽が2つ設置されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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