台北大橋
Taipei Bridge
台北大橋現景
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度3分49.51秒 東経121度30分22.99秒 / 北緯25.0637528度 東経121.5063861度 / 25.0637528; 121.5063861
台北大橋
各種表記
繁体字:臺北大橋
簡体字:台北大?
?音:Taib?i Daqiao
通用?音:Taib?i Daciao
注音符号:??? ??? ??? ????
発音:タイベイ ターチャオ
台湾語白話字:Tai-pak T?a-kio
日本語漢音読み:たいほくおおはし
日本語慣用読み:たいぺいおおはし
英文:Taipei Bridge
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台北大橋(たいほくおおはし[2]、たいぺいおおはし、タイペイターチャオ)または台北橋(たいほくばし、たいぺいばし、タイペイチャオ)は、中華民国台北市大同区と新北市三重区の境を流れる淡水河に架かる台湾省道台1線の道路橋である。1991年に改修され1996年に現在の姿となっているが[1]、その源流は清朝統治時代の鉄道橋(淡水橋)にまで遡る。その後の台北橋、淡水橋、大橋頭、日本統治時代の大橋町などの地名の由来となっている。東詰で平日朝に撮影された、自動二輪による通勤風景。
全長481.6メートル[1]、全幅44メートル[1]。平日朝通勤時間帯の自動二輪の渋滞は「バイクの滝(機車瀑布/Motorcycle Waterfall)」として注目され、国外から観光客が見物に訪れる[3][4][5][6]。
沿革夜景
初代(1889年?)(中国語版)(現・三重区)と台北大稲?埠頭が連結された[9][10]。全長は1,498メートルだった[8]。
日本の民俗学者伊能嘉矩の記述では元の設計は鉄橋だったが経費不足により木造橋へと改められた。橋上には鉄道軌道(台北 - 新竹を結ぶ全台鉄路商務総局鉄道。現在の縦貫線の前身)が敷設され、両側には馬車も通れる歩道があった。北岸は鉄製の旋開橋となっていて船舶通航時は開閉されていた[9][11]。ただ木造であったため、河川の氾濫に弱かったばかりか、水に直接晒される橋脚の土台部分は劣化が速く、頻回に補修が必要だった[11]。
1895年(明治28年)、清朝から日本に割譲されると淡水橋と呼ばれるようになった。また清朝軍の退却時に破壊された橋を修繕して鉄道の運行を再開した[12]。
1897年(明治30年)8月に台風の襲来で淡水橋が不通になったことで[9][13]、台湾総督府は鉄道の経路を新店渓を渡河し萬華、板橋と樹林を経由、再度大漢渓を渡河する現在のルートに変更することを決定した[9]。
1899年(明治32年)、旧ルートの鉄道は撤去され新ルートの鉄道開通により、三重埔地区の鉄道の歴史は幕を閉じた[9][14]。その後21世紀に台北捷運が開業する。
当時の淡水橋は大龍?(中国語版)と大稲?一帯の重要な交易拠点として機能し、これらの周辺の発展には欠かせないインフラだった[15]。
1920年(大正9年)4月3日木造橋の再開通式典が開催され[16]、名称も台北橋と改称[17]。だが半年も経たない9月4日に淡水河の氾濫で再び被災した[18]。 翌1921年(大正10年)2月、台湾総督府は木造橋による再建を放棄、自動車社会にも対応できるトラス橋での再建に着手した[9][19]。 1925年(大正14年)6月18日午前10時(台湾現地時間)に開通式典が開かれた[8][9][20]。
木造の初代台北橋(1889年)。船舶通航時は写真右側の光線部分の橋桁が開閉されていた。
1925年の台北橋
二・三代目(1920年?1969年)