台児荘の戦い
台児荘の中国軍部隊
戦争:日中戦争
年月日:1938年(昭和13年)3月 - 4月
場所:山東省南部
結果:日本軍の戦略撤退[1][2]。
交戦勢力
大日本帝国 中華民国
指導者・指揮官
西尾寿造
板垣征四郎
磯谷廉介李宗仁
孫連仲
湯恩伯
ファルケンハウゼン(顧問)
戦力
2個師団(2個支隊)約100,000人
損害
戦死:2,369人
負傷:9,615人戦死、負傷:20,000人
日中戦争
主要戦闘・事件の一覧
1937-1939年
北支(盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル) - 上海 (大山事件 - 上海爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州 (台児荘
台児荘の戦い(たいじそう/だいじそうのたたかい)とは、日中戦争中の1938年3月から4月7日までの間、山東省最南部の台児荘(台児庄とも)付近で行われた戦闘である。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が、中国軍の大部隊に包囲されて撤退、徐州作戦の引き金となった。中国側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる。 南京攻略後、参謀本部では1938年夏まで新作戦は行わないという方針を固め、1938年2月16日の御前会議で天皇の承認を得ていた。一方、山東省の済南・青島を占領していた北支那方面軍は、たびたび隴海線(徐州)方面へ向かう南下作戦を要請していたが、大本営はこれを認めなかった。参謀本部作戦課長河辺虎四郎大佐が現地へ赴いて作戦休止の方針を説得したが、司令官たちからはこの方針への不満を浴び、河辺課長は帰国直後(3月1日)に更迭された[3]。 こうした中で2月17日、北支那方面軍隷下の第2軍は「軍司令官の意志」と称し、大本営の方針に反して第10師団に済寧への攻撃を指示し、第5師団の一部を沂州へ向かわせ第10師団に協力させた(沂州は大本営の指定した進出限界線より約60キロ突出していた)。第5師団は片野支隊(歩兵1個大隊基幹)を編成して沂州を攻略、2月23日、坂本支隊は片野支隊を吸収して南下し、3月5日湯頭鎮を攻略した。 その後、第2軍は「南進作戦ではないから、”眼前の敵”を撃破したい」と大本営に要請した。3月上旬、不拡大派の河辺に代わって作戦課長に就いた稲田正純大佐はこの要求を追認した。3月13日、第2軍は第10師団に対し山東省最南部の大運河の線(韓荘(徐州の北40キロ)?台児荘)までの中国軍撃滅を命令した[4][5]。
背景
参加兵力
日本軍
北支那方面軍 - 司令官:寺内寿一大将
第2軍 - 軍司令官:西尾寿造中将、参謀長:鈴木率道少将
第5師団 - 師団長:板垣征四郎中将
坂本支隊 - 第21旅団長:坂本順
(歩兵第21連隊、歩兵第42連隊、野砲兵第5連隊、山砲兵1個中隊基幹)