只野真葛
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只野 真葛(ただの まくず、宝暦13年(1763年) - 文政8年6月26日1825年8月10日))は、江戸時代中期・後期の女流文学者国学者。父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明批評家[1]女性思想家[2]と評されることもある。『赤蝦夷風説考』の筆者工藤平助の娘で、別号は綾女。本名は工藤あや子(綾子)、または単にあや(綾)。「工藤真葛」、「真葛子」、「真葛の媼(おうな)」とも称される。只野は婚家の読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評をたのんだ経世論独考(ひとりかんがへ)」、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。目次

1 生涯

1.1 出生と系譜・家族

1.2 少女時代

1.3 奥女中奉公

1.4 最初の結婚

1.5 数寄屋町での暮らし

1.6 再婚

1.7 仙台行きと父の死

1.8 著作活動へ

1.9 『独考』の執筆と晩年


2 略年譜

3 真葛の作品

3.1 著作物

3.1.1 随筆・随想

3.1.2 紀行文

3.1.3 日記

3.1.4 伝説物語

3.1.5 評論

3.1.6 その他


3.2 真葛の和歌

3.3 真葛の漢詩


4 只野真葛研究と歴史的評価

4.1 真葛研究のはじまり

4.2 真葛研究のひろがりと真葛像

4.3 真葛を描いた伝記や文学作品


5 脚注

5.1 注釈

5.2 参照


6 出典

7 関連文献

8 外部リンク

生涯
出生と系譜・家族

只野真葛こと工藤あや子は、宝暦13年(1763年)、仙台藩江戸上屋敷に近い江戸築地で生まれた[注釈 1]。父は仙台藩江戸詰の医師であった工藤周庵(平助。1734年-1801年)、母は同じく仙台藩医の桑原隆朝の長女遊(ゆう。1741年?-1792年[注釈 2]。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には7人きょうだいの長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子どもたちを秋の七草の名にちなんで呼称していたことに由来し[3]、40歳ころからみずから用いるようになったものである[4]

祖父工藤丈庵(名は安世、父平助の養父。1695年-1755年)は、仙台藩第5代藩主伊達吉村寛保3年(1743年)に江戸品川袖ヶ先に隠居するにあたり、その侍医として300石で召し抱えられた。父平助は、紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であったが延享3年(1746年)頃丈庵の養子となった。祖父丈庵は、名医として知られていたばかりでなく、学問、歌道、書道および武芸百般に通じ[注釈 3]蝦夷開拓論者の並河天民から情報を得ており、また、蓄財も巧みであったといわれる[注釈 4]。丈庵は、あや子が生まれる8年前に没している。

母方の祖父は、仙台藩医桑原隆朝如璋(1700年ころ-1775年)で、元文5年(1740年)に200石で仙台藩に召し抱えられ、第6代藩主伊達宗村(吉村四男)のとき、400石に加増された。如璋の妻桑原やよ子(生没年不詳)は『うつほ物語』の紀年(年立)を考察し、安永年間(1772年-1780年)に研究書『宇津保物語考』を著すほどの高い教養の持ち主であり、両親に厳しい家庭教育を施されたあや子の母[5]もまた『古今和歌集』『新古今和歌集』『伊勢物語』などを暗唱し、『大和物語』も繰り返し読むなど古典文学に造詣の深い女性であった[5]


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