古関裕而
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基本情報
出生名古関 勇治
別名ユージン・コスマン
(Eugene Cossmann)
生誕 (1909-08-11) 1909年8月11日
日本福島県福島市
死没 (1989-08-18) 1989年8月18日(80歳没)
日本神奈川県川崎市宮前区菅生聖マリアンナ医科大学病院
学歴旧制福島商業学校(現・福島県立福島商業高等学校
ジャンル.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

応援歌

行進曲

軍歌

戦時歌謡

ニュース歌謡

歌謡曲

クラシック音楽

職業作曲家
活動期間1930年 - 1986年
レーベル日本コロムビア

古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年明治42年)8月11日 - 1989年平成元年)8月18日)は、日本作曲家。本名は古関 勇治(読み同じ)。妻は声楽家詩人古関金子

気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされる[1]

その曲風は、古関メロディーとして親しまれた。
概要

福島に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期には金須嘉之進に師事。1929年国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品として、自身の作品がノミネート。これを日本の新聞で「チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌歌謡曲映画音楽軍歌の作曲を手掛け、音丸の「船頭可愛や」、中野忠晴伊藤久男らの「露営の歌[※ 1]」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇波平暁男の「若鷲の歌」、渡辺はま子の「愛国の花」などを発表した。戦後は、ラジオドラマ鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。

他方で、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、中日ドラゴンズの旧球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手がけ、和製スーザと呼ばれた。巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関本人はスポーツが苦手で、プロ野球にもあまり興味がなかったため、球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた[2]

また、母校である福島商業高等学校の校歌「若きこころ」を始め、北海道から九州に渡る多数の学校で校歌を作曲している[3]

楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行い、繁忙期には同時に3つの曲を作っていたという[4][5]
生涯
幼少期

1909年8月11日、福島県福島市大町にあった老舗呉服店「喜多三(きたさん)」の8代目当主だった父・古関三郎次[※ 2]と母・ヒサの長男として誕生。なかなか子供ができず養子をもらおうかと思っていたところに誕生したため、両親から溺愛された[6]。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつも浪曲民謡吹奏楽などのレコードをかけていた[6]。古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。

同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年が住んでおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる[7]

1916年(大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現福島大学附属小学校)へ入学した。小学3年生の時、母ヒサは古関に3オクターブの鍵盤がある卓上ピアノを買い与えた。また、小学3年生から6年生のときの担任であった遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。音楽の授業では、詩に曲をつけさせたり、遠藤が作曲した歌を歌ったりした。古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を作って古関に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。
青少年期

1922年(大正11年)、旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学した。同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた。年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。初めて自分の作品が披露された出来事であった[8]。しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。

1923年、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシームソルグスキーなどである。このレコードコンサートには頻繁に通っていたという[8]

1927年頃に、本名の「勇治」では勇ましすぎると感じ、ペンネームを「裕而」に変更している[9]

1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務した。町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた[10]。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている[8]。古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演する。この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進和声法を師事することになった[11]。金須は正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んでいた。
コロムビア専属へ

1929年(昭和4年)、イギリスロンドン市のチェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』第10巻第77号[12]に掲載された管弦楽作品の懸賞募集を見て、同年7月に管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を含む5つの作品を応募した。『竹取物語』はストラヴィンスキーの『火の鳥』から影響を受け、商業学校5年生の時に書き始めた作品であった。同年12月に福島商業学校の恩師、丹治嘉市に「2等に5曲共入賞致しました。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£400の金が送金されて来ました。」と手紙で報告し[13]1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞福島民友新聞など各紙で入賞を大々的に報道された[14]。これらを典拠として『竹取物語』を日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品とする文献があるが[10]、この作品が二等に入賞したとされる作曲懸賞募集の詳細は明らかになっていない。これは国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある[15]。日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのは外山道子の「やまとの声[16]」である。

『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。

この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住[※ 3]内山金子(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も100通を超える熱烈な文通を経て1931年2月9日、古関21歳、金子18歳で入籍し、同年5月19日に結婚式を挙げた[17]。古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。

この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れないという[※ 4]

1930年9月、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した[10]。東京では菅原明朗に師事した。菅原とは同年9月から11月頃に出会い、童謡歌手の古筆愛子の自宅で開かれた勉強会で菅原からリムスキー=コルサコフ著『実用和声法』を教科書として学んだのち、1933年から1934年頃までの2年間、菅原から個人教授を受けた[18]


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