古賀 浩靖(こが ひろやす、1947年(昭和22年)8月15日 - )は、日本の政治活動家、民族主義者。三島由紀夫が結成した「楯の会」の2期生で第5班副班長。三島、森田必勝と共に、憲法改正のための自衛隊の決起(クーデター)を呼びかける三島事件に参加した一員である[1]。その後、荒地浩靖と改姓し[2]、宗教家となった[3]。目次 1947年(昭和22年)8月15日、父・幸利と母・幸の次男として北海道滝川市字北滝の川に誕生[4][1]。父・幸利は元小学校校長で、宗教法人「生長の家」の本部講師をしていた[1]。浩靖は、二男五女の末っ子であった[1]。 高校時代に、「生長の家」練成会に入り、合宿生活をしたこともあった浩靖は、小・中学校の授業では教わることのなかった「真の人間の存在価値」に触れ、日本の歴史の生命と自分の生命の一体化を知り、人生観が変化していった[5]。 またその頃、浩靖は菅原裕の『日本国憲法失効論』、憲法調査会の『制憲のいきさつ』などを読み、アメリカから押しつけられた現憲法破棄のために一生を賭けることを決意した[5][6]。 1966年(昭和41年)3月に北海道札幌西高等学校を卒業後、4月に憲法改正論を唱える教授がいる神奈川大学法学部に進学した浩靖だった(当時の神奈川大学にはドイツ法を専攻し純粋法学のハンス・ケルゼンに影響を受け、カール・シュミット研究で知られる黒田覚(京都大学系憲法学者、君主象徴論、黒田制憲権論で有名)が居た。)が、その教授は現憲法の誤りは指摘するが、それが「頭の中のこと」だけだったため失望した[6]。 浩靖は、戦後日本の在り方に疑問を持ち、日本建国の精神・源流を血肉化するため、「日本文化研究会」(日文研)を友人らと共に結成し[5]、「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)で知り合った後輩の、小賀正義(工学部)とも一緒に活動した[5][7]。 学園紛争や第一次羽田闘争で荒れる新左翼の現状に危機を抱いていた浩靖は、三島由紀夫の『憂国』を読み、その主人公に自身の生き方を示された気がし、高校時代の同級生にも読むように手紙を書いた[6]。この頃、住居は東京都町田市金井町に両親、12歳上の姉・綏子、9歳上の兄・国靖と共に住んでいた[1]。 1968年(昭和43年)7月、大学の後輩で同じ全国学協の伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会〉1期生)から誘われ、三島由紀夫が引率する第2回の自衛隊体験入隊に参加し、7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で軍事訓練を受けた[8][7]。同じ回には、やはり伊藤から紹介を受けた小賀正義もいた[8]。 楯の会 2期生となった古賀は、1969年(昭和44年)春頃から第5班の副班長になった(班長は小賀)[1]。1970年(昭和45年)3月に大学を卒業した古賀は、楯の会の活動と並行して、司法試験の受験勉強を始めた[1]。
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 神奈川大学法学部に進学
1.3 楯の会へ
1.4 三島事件当日の行動
1.5 三島由紀夫と森田必勝の介錯
1.6 三島事件裁判陳述
1.7 三島事件後
2 人物像
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
経歴
生い立ち
神奈川大学法学部に進学
楯の会へ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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