この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。古神道(こしんとう)とは、 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教をいう。純神道、原始神道、神祇信仰ともいう。通常はこちらを古神道という。
江戸時代の復古神道の略称。
江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動。仏教、儒教、道教、渡来以前の日本の宗教を理想としている。神道天行居や出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの教団が存在している。大本などに影響を与えた。
概要
出典検索?: "古神道"
外来の影響を受ける以前という意味での古神道とは「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝などのアニミズム、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。民俗学などで提唱された。
江戸時代に発達した復古神道の流れの国学において、古神道という概念が初めて提示された。当初の定義では「記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道」が古神道、「記紀などの古典に根拠を置かず儒仏思想を混じえた神道」が俗神道であるとされ、古神道と俗神道が対概念であった。
近代以降、歴史学において仏教伝来以前の神道を純神道と呼んだが、その後、おもに人類学のほうから原始神道という呼び方がされるようになった。
しかしさらに後、神道という枠組み自体が仏教や儒教と対抗的に歴史的に形成されたものであるという説に依拠して、現在のいわゆる神道の実体または核心が儒仏以前に遡るという発想には疑問がもたれ、新たに神祇信仰(または神祇崇拝)という言い方がされるようになった。これは古代の特定の民族の宗教でありながら特定の名称をもたない多神教が、例えば「古代ギリシア人の宗教」とか「古代エジプト人の宗教」などと呼ばれていることに準拠した表現でもある。
以上の用語はほぼ同義であるが、しいていえば微妙なニュアンスの差異がある。それは、古神道という用語は、純粋に学問的な手法による研究にしろ、宗教的または神秘主義的な手法にしろ、ある一定の体系だった世界観がかつて存在し、かつそれが本来の神道であったという予感のようなものを前提としており、これに対して神祇信仰という用語は、かつて存在したのはいわゆる神道と呼ばれるべきものとは別であったことが学問的な研究の結果わかるはずという信念を前提としている。これらに対して原始神道は、不可知論または未知の立場である。むろんこれらは微妙なニュアンスの問題で、実際にはほぼ同義の言葉である。
仏教でいう根本仏教・原始仏教・初期仏教という言葉の差異にあてはめると、古神道が根本仏教、原始神道が原始仏教、純神道が初期仏教のニュアンスにそれぞれ近く、神祇信仰に該当する仏教の言葉はない。また通俗書などでは「縄文神道」という言葉もみられるが、かなり意味が狭く限定されてしまうのと、学問の進歩とともに縄文のイメージが変化していくため恣意的なニュアンスを賦与されがちであり、専門用語として熟した言葉ではない。 日本民俗学では、太陽から来るマナを享受し、それを共有する存在をライフ・インデックスとして崇拝する自然崇拝は神籬・磐座信仰として現在にも残るとされ、具体的には、神社の「社(やしろ)」とは別に境内にある注連縄が飾られた御神木や霊石があり、また、境内に限らずその周囲の「鎮守の森」や、海上の「夫婦岩」などの巨石などが馴染み深いものである。また、雷を五穀豊穣をもたらすものとして「稲妻」と呼んだり、クジラは日本においては、座礁や漂着などして現れた貴重な食料として、感謝の気持ちを込めて「えびす」と呼んだりして、各地に寄り神信仰[注 1]が生まれた。また、「野生の状態で生き物として存在するマナ」として捉えられるシャチやミチ(アシカ)なども、畏き(かしこき)者として恐れ敬われた。 自然や幸せに起因するものだけでなく、九十九神にみられるように、生き物や人工物である道具でも、長く生きたものや、長く使われたものなどにも神が宿ると考えた。そして、侵略してきた敵や、人の食料として命を落としたものにも命や神が宿る(神さぶ)と考え、蒙古塚
自然崇拝
異界観磐座信仰から派生した庚申塚
自然に存在する依り代としての岩や山、海や川などは神の宿る場所でもあるが、常世と現世との端境であり、神籬の籬は垣という意味で境であり、磐座は磐境ともいい、神域の境界を示すものである。実際に、島に森林を含めた全体を神の領域とする「禁足地」である宗像大社、「沖ノ島」のような場所もあり、その考えは神社神道の建築様式の中などにも引き継がれているが、例えば、本来は参道の真ん中は神の道で禁足となっている。
一般家庭にも結界はあり、正月の注連縄飾りや節分の柊鰯なども招来したい神と招かれざる神を選別するためのものでもある。また、集落などをつなぐ道の「辻」には石作りの道祖神や祠や地蔵があるが、旅や道すがらの安全だけでなく、集落に禍や厄災を持ち込まないための結界の意味がある。 古来からの古神道は後から意味付けされたものも多く、その対象も森羅万象におよぶので、共通の概念や用語をとりまとめるのは難しいが、古神道に始まり、現在への神道までの流れとして時系列や、漢字や日本語としての古語の意味などを考え、記述する。 神世(かみよ)現世と常世のすべて。
世界観
とこよ(常世・常夜)
常世
常夜
うつしよ(現世)