古田重然
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例古田重然(古田織部)
古田織部像(元禄年間『茶之湯六宗匠伝記』を着色。大阪城天守閣蔵のものより百年以上古い)
時代戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕天文12年(1543年[注釈 1]
死没慶長20年6月11日1615年7月6日
改名景安(初名)→重然
別名左介、織部(通称
戒名金甫宗屋禅人
墓所京都府京都市北区の大徳寺三玄院
京都府京都市上京区の興聖寺(豊後古田氏建立)
官位従五位下、織部助(織部正
主君織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族古田氏[注釈 2]
父母父:古田重定(勘阿弥)、母?不明
養父:古田重安
兄弟重然
妻正室:中川清秀妹・せん
子重行(九郎八)、重広、重尚、小三郎、重久、娘(古田重続室)、娘(鈴木左馬介室)、新宮行朝室[要出典]
テンプレートを表示
織部作と伝わる南宗寺庭園(国の名勝

古田 重然(ふるた しげなり[1]、ふるた しげてる[2])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名茶人芸術家。古田 織部(ふるた おりべ)の通称で知られる。南山城・東大和1万石の大名。官位は従五位下織部助

豊臣秀吉徳川家康の茶頭、徳川秀忠茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府(柳営)の御茶吟味役柳営茶道の祖。利休七哲のひとりで、千利休の後継者として茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらした。また、武将としても大坂夏の陣で徳川方につき武功を挙げたが、豊臣側と内通しているとの疑いをかけられ、自刃した。

子供に、長子・重行(九郎八、豊臣秀頼家臣)、嗣子・重広、重尚(前田利常家臣)、小三郎(池田利隆家臣)、重久(左近徳川秀忠家臣)がいる。
名前

一般的には茶人・古田織部として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下「織部助」の官途に叙任されたことに由来している。「織部正」は自称と考えられている。『断家譜』、『系図纂要』においては、・重然(しげなり)。初名は景安(かげやす)。また手紙には古織部、古田織部、古田織部助、古田宗屋と自署した。

江戸期の史料では古田重勝と混同されている場合が多い。
織部

古田織部が織部正ないし織部助の官位に叙された資料は、残っていない。今日、古田織部と呼ばれるのは、手紙や公家の日記からの類推である。

天正15年の九州遠征の軍令『松下文書』に「古田織部頭」、天正18年に妙応寺(岐阜県不破郡関ヶ原町)に宛てた手紙では、「古田織部頭」と自署している。また『言経卿記』文禄三年三月十三日には、「古田織部正」と書かれている。これらが古田織部が織部正と称していた根拠である。

他方で陽明文庫には、慶長19年(1614年)頃に近衛信尹に宛てた17通の書状が残っている。こちらには、「織部助」となっている。

以上を加味すると古田織部が「織部正」と自署したことはない。

古田織部の茶室の庵号は玄庵。斎号は印斎。法名は金甫宗屋である。しかし、古田織部美術館文書に「宗屋」の署名があるものの、これらの号の自署はみられない[3]
生涯
生年

古田織部の生年には、天文12年(1543年)と天文13年(1544年)の二通りがある。

天文13年説の根拠は、『龍宝山大徳寺誌』に出てくる「元和元年(1615年)六月十一日、七十二卒」からの逆算である。なおここでは、織部助重能(しげよし)あるいは重勝となっている。また利休の死後、天下の宗匠と呼ばれたこと、大徳寺の春屋宗園の弟子であったことなどが触れられている。

天文12年説の根拠は、松屋久重の『古織公伝書(こしょくこうでんしょ)』にある「慶長廿年卯六月十一日 七十三歳 古織殿 卯ノ年ノ人ナリ」からの逆算で古田織部が癸卯の生まれであると記録している。なお慶長20年は、1615年であり、この年の7月13日に元和に改元されているので同じ年の出来事になる。

大日本史料(十二編之二十一)』は、天文13年説を取っており『龍宝山大徳寺誌』を根拠としている。ただしどちらも寺院と茶人・松屋久重の私的な文書であって大名家や幕府の編纂した公式記録ではない。
武将として

美濃国の国人領主であった古田重安の弟・古田勘阿弥還俗主膳重定と改名したという)の子として美濃国に生まれ[4][注釈 3]、後に伯父・重安の養子となったという。家紋は三引両。『古田家譜』[注釈 4]に勘阿弥は「茶道の達人也」と記されていることから、織部も父・勘阿弥の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[5]

古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)の織田信長の美濃進駐、あるいはその前に織田氏の家臣として仕え、織部は伯父・重安に伴われて足利義昭に属し、長岡藤孝(細川幽斎)使番を務めた[6]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚[7]

天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[8]。その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[9]と少ないながらも武将として活動している。

信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話が残る(『烈公間話』)。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため織部は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐四国平定にも秀政と共に出陣している[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef