古田足日
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古田 足日
(ふるた たるひ)
誕生 (1927-11-29)
1927年11月29日
日本愛媛県川之江町
死没 (2014-06-08) 2014年6月8日(86歳没)
職業評論家作家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学第一文学部露文科中退
活動期間1953年 - 2014年
ジャンル児童文学
文学活動現代児童文学
代表作『現代児童文学論』(1959年
『ぬすまれた町』(1961年
『宿題ひきうけ株式会社』(1966年
大きい1年生と小さな2年生』(1970年
おしいれのぼうけん』(1974年
主な受賞歴日本児童文学者協会賞1967年
デビュー作『現代児童文学論』(1959年
ウィキポータル 文学
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古田 足日(ふるた たるひ、男性、1927年昭和2年)11月29日 - 2014年平成26年)6月8日)は、日本評論家児童文学作家。本名同じ。

父は国文学者古田拡東京大学教授を務めた国文学者古田東朔は兄。早稲田大学第一文学部露文科在学中、早大童話会にて鳥越信らと『少年文学宣言』を草案・発表。その後中退[1]児童文学の評論、創作など多様な活動を続けた[2][3]

1960年昭和35年)『現代児童文学論』第9回日本児童文学者協会新人賞[1]1967年(昭和42年)『宿題ひきうけ株式会社』第7回日本児童文学者協会賞[4]
来歴・人物
幼少期

愛媛県川之江町(現:四国中央市)にて、1927年昭和2年)八人兄弟の三男として生まれる[5]。兄弟は第二子が姉である以外、全員男。足日の命名は父で、「出雲国造神賀詞」より。

父の教えは「思った事は堂々と言え」で、毎月大量の書籍を購入しており、子どもたちのために「日本児童文庫」「小学生全集」「世界童話大系」を全巻そろえた。

1931年(昭和6年)には与謝野晶子夫妻が村を訪問。家に与謝野夫妻の色紙や短冊があったという。『赤い鳥』も購読したが、興味は薄かった。翌年には『サクラ読本』の見本誌を読み、編者の芦田恵之助に感想をのべると、芦田は後日この感想を著書に記している、1935年(昭和10年)、「いじめられっこの優等生」と称された[5]小学生時代にカレル・チャペック吉野源三郎の作品を読み、グリム童話やアンデルセン童話と異なる内容に衝撃を受ける。1937年(昭和12年)、10歳の時にはもう眼鏡をかけた。父が愛媛師範学校の教師となったことにより転居、翌年2学期の中頃まで道後湯之町に暮らす[5]
学生時代(中学・高等学校)

1940年(昭和15年)、愛媛県立三島中学校(旧制)に入学[5]。同級生に喜井利明がいた。物心ついた頃はすでに軍事色が強く、軍国主義少年であることを違和感を覚えずに育ったが、中学の体育や軍事教練は嫌悪感を覚え、欠席していた。この頃より父との衝突が増える。太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)夏、父が北京師範大学に転身赴任することとなったため、一家は東予市に転居し、足日は西条中学校に転校する[5]

兄が進んだ第一高等学校1943年(昭和18年)に京都で受験するが不合格。勤労動員により住友金属鉱山下部鉄道で働く。翌年松山高等学校も受験するがこれも不合格。

1945年(昭和20年)6月、大阪外事専門学校ロシア語科に進む。同級生に西村芳重、先輩に二宮欣也、アラビア語科に足立光夫がいた。

敗戦確実の中、当初は枚方市の火薬工場で働いていたが、火薬の材料がないため、製塩命令が出て浜寺に移動した翌日、玉音放送で終戦を知る。自分でも戦争を続けるか切腹かで迷うなど、まだしばらく軍国主義だった。故郷愛媛で安い米を買い、大阪で高く売るかつぎ屋をつとめたが、人生でもっとも嫌な時期だったと語り、回願も少ない。
学生時代(大学)

1948年昭和23年)9月に大阪外専を中退した後[6]1949年(昭和24年)に早稲田大学第一文学部ロシア文学科2年次に編入[6]。同級生に内田莉莎子がいた。生活費がないことから通学せずにすぐ休学した。同年4月に、父の紹介により愛媛県宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の国語と歴史の代用教員となった。大阪外語の友人・西村芳重と共に赴任する。全校で32人(一年生8人、二年生16人、三年生8人)の小規模の小学校。夏、父・拡が視察をかねて分校を訪れ、作文の授業をする[7]1992年平成4年)に教え子たちと再会するが、この仕事を紹介した父の授業の印象が強く、本人の印象は薄かったという)。1年教えた所で結核により翌1950年(昭和25年)3月に休職しそのまま退職した[8]。このころ兄の友人が講談社の編集をしており、創作民話『ちきりが淵』を持ち込むと『少女クラブ』8月号に載り、人生で初めて原稿料をもらう[7][8]

早大には1951年(昭和26年)から通い始め、当初は大学公認サークルである現代文学研究会[注 1]に入会する[8]。だが部室が早大童話会と斜め向かいの位置関係にあり、童話会にも出入りするようになると、これまで大人向けの文学作品しか考えていなかったはずが、1年たつと童話会のほうに魅力を感じていった[注 2]。童話会で神宮輝夫鳥越信山中恒らと知り合う。古田を加えた4人は交流が深く、以後「前述の4人」と記す。童話会機関誌『童苑』にも作品が掲載される。

在学中に『童苑』を1953年(昭和28年)6月4日発行の19号分から『少年文学』と改題[8]。マニフェスト「少年文学の旗の下に!」の起草に参画。これは“少年文学宣言”と呼ばれ、当時の児童文学界に大きな議論を巻き起こした。これには前述の鳥越のほか、鈴木実も参加、以後鈴木とも交流を深める。その後「小さな仲間」に同人入りする砂田弘とも交流を深める。

1953年(昭和28年)9月に早大を中退[8]。11月に結婚した妻による、中学・高校の非常勤講師の収入にたよりながら、宣言の内実を深めるために児童文学評論を書き始める。
結婚後


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