古田武彦
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古田 武彦
(ふるた たけひこ)
誕生 (1926-08-08)
1926年8月8日
福島県喜多方市
死没 (2015-10-14) 2015年10月14日(89歳没)
京都府京都市
職業思想史学者・古代史研究家
国籍 日本
最終学歴東北大学法文学部日本思想史学科[注釈 1]卒業
活動期間1969年 - 2011年
ジャンル歴史学
主題日本思想史、日本古代史、親鸞
代表作『「邪馬台国」はなかった
『失われた九州王朝』
『盗まれた神話』
主な受賞歴金沢大学暁鳥賞
デビュー作『「邪馬台国」はなかった
影響を与えたもの

竹内均中嶋嶺雄山田宗睦西村俊一川端俊一郎森嶋通夫安川寿之輔

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古田 武彦(ふるた たけひこ、1926年大正15年)8月8日 - 2015年(平成27年)10月14日[1])は、日本思想史学者・古代史家。元昭和薬科大学教授。専門は親鸞等の日本中世思想史。
人物
出生から高校教員時代

福島県喜多方市生まれ。旧制中学の英語教師をしていた父親の転勤にともなって、広島県に育つ。旧制広島高校を経て、1945年(昭和20年)、東北帝国大学法文学部日本思想史学科に入り村岡典嗣に師事する。1948年(昭和23年)に大学卒業。

大学卒業後は公立高等学校教員(地方公務員)となり長野県松本深志高等学校教諭、神戸森高等学校講師、兵庫県立湊川高等学校教諭、京都市立洛陽工業高等学校教諭として国語科社会科を教える。在職中から、親鸞に関する研究で知られた。家永教科書裁判では、親鸞に関する記述について、原告家永三郎)側証人となった。
文献史学研究での活動

1969年(昭和44年)、『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表。1970年(昭和45年)に教職を離れ、以後研究に専念する。九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示し、学界の通説に再検討を迫る。

このなかには神武天皇実在説など「記紀」の内容を信用したうえでの説があるため釈古派や右翼とも言われている。また好太王碑改竄否定説を主張。1985年には自説を証明するために好太王碑の現地調査を行い「碑文に意図的な改ざんは認められない」と結論付けるなど[2]、自説証明のために積極的に活動したため学界からも一定の評価を得た。古田の論文は史学雑誌史林にも掲載されたこともあり学会の注目を受けたほか、初期はマスコミからも取り上げられることは少なくなかった[注釈 2]

それにより、多くの支持者・賛同者を集めるとともに、自説を巡って安本美典[注釈 3]など多くの研究者と論争を繰り広げた[注釈 4]。一時は高校教科書の脚注に仮説(邪馬壹国説、また親鸞研究時代の内容)が掲載されたこともある。賛同者・読者の会として「市民の古代研究会」が組織され、1979年(昭和54年)より雑誌『市民の古代』が刊行された。

親鸞研究でも注目を集め、1975年(昭和50年)に偽書説が定説であった三夢記の真作説を唱え、学界での論争のキッカケとなった[3]1979年(昭和54年)度、龍谷大学文学部非常勤講師。1984年(昭和59年)4月より1996年(平成8年)3月まで昭和薬科大学文化史研究室=歴史学)教授[注釈 5]
『東日流外三郡誌』研究の開始とその影響

東日流外三郡誌』などの和田家文書と出会い、その内容を肯定的に評価した[4]。さらに後年、同書に対して「偽書ではないか」との強い疑念が提出されて以降も[5]、所蔵者の和田喜八郎を支持する姿勢を貫き、昭和薬科大学の「紀要」に論文を記載するなど、積極的な研究をしていた。それをきっかけとして、市民の古代研究会の分裂を招くに至り、運営に当たっていた関西を中心とした一部の会員が古田から離れた[注釈 6]。ただし、神代文字や和田家文書以外の古史古伝一般については充分な研究が必要として扱うのに消極的だった。

1996年(平成8年)3月に昭和薬科大学を定年退職した後、京都府向日市に戻り、執筆・講演活動を続けた。2006年(平成18年)5月には雑誌『なかった 真実の歴史学』を創刊し、直接編集にあたった。

昭和薬科大学の文化史研究室は、古田の退職後廃止された。市民の古代研究会は古田から独立した研究会としてしばらく存続したが、雑誌は終刊となり、2002年(平成14年)12月に解散した[注釈 7]。古田を支持して脱退した人々は「古田史学の会」「多元的古代研究会」など複数の研究会を結成し、連合して年刊の雑誌『新・古代学』を発行していた。この中で古田は、和田家文書偽書派の主張に対して反論を行っている[6]
「寛政原本」発見とその後

2007年(平成19年)、古田は『東日流外三郡誌』の「寛政原本」を発見したと主張し、翌年にはその写真版を出版した[7]。この書籍には、笠谷和比古(国際日本文化研究センター研究部教授)による鑑定文が収録されている[8][9][注釈 8]。一方、和田喜八郎の筆跡と一致しているとする主張[10][11][12]や、表紙は和田喜八郎の筆跡で中身は僧侶が漢詩をつくるための覚書(おそらくは寺院からの流出物)と思われるものであるとする主張がある[13]

2009年(平成21年)、国記天皇記からの引用を和田家文書の中から発見したと主張した。それと同時に『なかった』を休刊する[14]

2010年(平成22年)から、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』[注釈 9]以下、古代史関係の著作をミネルヴァ書房より「古田武彦・古代史コレクション」として復刊。また、2011年(平成23年)9月10日にミネルヴァ日本評伝選として『俾弥呼(ひみか) 鬼道に事え、見る有る者少なし』を発刊した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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